夏樹静子 女検事 霞夕子 螺旋階段をおりる男 目 次  予期せぬ殺人  螺旋階段をおりる男  白い影  予期せぬ殺人    1 〈こちらへ来て、早くも十日が過ぎました。今日あたり、東京は桜が満開ではないでしょうか。金沢ではまだ蕾《つぼみ》がほころびかける頃《ころ》です。一昨日《おととい》の日曜は、はじめて町をぶらついてみました。ひっそりした寺町の坂を歩いていたら、華江さんの家の付近を思い出して、無性に東京が懐《なつか》しくなりました。……〉  元麻布《もとあざぶ》の坂の中途で車を停《と》めた宮内華江は、さっき出がけに郵便受けから取り出した石川保の手紙に、もう一度目を通した。そういえばこの辺にもいくつかお寺があったなどと、今さらのように気が付いたりしながら。 〈犀川《さいかわ》大橋の上に立つと、古い家々のたたずまいが望まれて、こんな静かな町で華江さんと二人で暮せたらなんて、ぼんやり夢想していました。でも、学生時代とちがって、仕事はずいぶん忙しそうで、今度はいつ東京へ行けるか——〉  華江は口許《くちもと》に微笑を残したまま、便箋《びんせん》を封筒に戻《もど》した。淡いブルーの和紙に兼六園の庭園を白抜きにした封筒は、文面の少々女性的な稚《おさな》さともマッチしているみたいだ。華江はちょっと眺《なが》めてから、封筒ごと二つに破り裂いた。この先まだ二、三回はこんな便りが届くかもしれないが、やがて彼は新しい職場に馴染《なじ》み、齢《とし》相応の女友だちでもできれば、華江との思い出は自然とうすれていくだろう。去るもの日々に疎《うと》しともいうから……。  華江は七分の安堵《あんど》と、残り三分はほのかな感傷に浸りながら、破った手紙を一捻《ひとひね》りして、ひとまずダッシュボードの下の屑籠《くずかご》へ放《ほう》りこんだ。  車を降りてロックすると、軽やかな足取りで道路を横切り始める。大柄《おおがら》でプロポーションのいい華江は、グレーの地にオレンジ色の罌粟《けし》が描かれた、洒落《しやれ》たワンピースを着ている。ここは元麻布から六本木へ下る傾斜地の途中の道路で、両側には古風な洋館や、四、五階建くらいの高級マンションなどが建ち並んでいる。四月十四日木曜日の午後三時すぎ、薄曇りの空の下で路上駐車の車が点々と目につくほか、人通りは途絶えていた。  華江は、〈ジュエリー・光本〉と表示のある小さな店のガラス扉《とびら》へ歩み寄った。先日買ったファッションリングのサイズ直しができている頃だった。  ジュエリーのスウィングドアは、いつもながらひっそりと閉まり、街路樹の影を映している。  華江の靴先《くつさき》が、そのドアまであと二メートル足らずに近づいた時——突然意想外の出来事が発生した。ドアが凄《すご》い勢いで開いたかと思った途端、店内から背の高い男がとび出してきて彼女と衝突した。彼女は突きとばされた恰好《かつこう》で尻餅《しりもち》をついた。プラタナスの根元に手をつき、落ちていたガラスの破片で小指の横を切ったが、その時にはまるで気付かなかった。それよりも、激しい驚きと怒りとの両方で、倒れながらも目をむいて相手を見返していた。  相手にとっても、それは思ってもみないことだったらしい。一瞬息をのんで華江を凝視《みつ》め、二人の視線が宙で絡《から》んだ。茶色っぽいチリチリ髪にジーンズのジャンパー、まだ二十歳《はたち》前後くらいか……と彼女が感じた直後、男は再び走り出した。その拍子に、ズボンのポケットから何か光るものがこぼれ落ちて、華江の肱《ひじ》のそばに転がった。指輪らしい。  彼女は反射的に立ち上った。夢中で男の後を追って走り始めた。 「泥棒《どろぼう》……誰《だれ》か来て……泥棒……」  相手の足は疾《はや》い。一メートル七十五センチ以上はある、屈強な体格の若者である。早く誰か来てくれなければ、みすみす逃げられてしまう……と思う間《ま》に、男は道路|脇《わき》に駐《と》めてあったバイクにまたがった。エンジンをふかし、スタートする直前、彼は華江を振り向いた。頬《ほお》のこけた酷薄そうな顔が、恐ろしい形相で追跡者を睨《ね》めつけた。かつて味わったことのない恐怖と共に、その顔が彼女の眼底に焼きついた。  モーターバイクは東麻布の方向へ、見る間に遠ざかっていく。ナンバーを憶《おぼ》えてやろうと、華江は目をこらしたが、それは無理だった。  彼女は荒い息をついて、踵《きびす》を返した。店内の様子が気になり始めた。こちらはいかにも不審な男と出会い頭《がしら》にぶつかったのに、誰も追いかけて来なかったというのはどうしたわけだろう。中では何か大変なことが——?  華江が店の前まで戻る間には、車が二台ほど走りすぎ、先のほうで通行人の姿も視野に入ってきたが、もう遅かった。  彼女はスウィングドアを押して中へ踏みこんだ。と同時に、ショウケースの前に倒れている男と、周囲の真赤な色が目に入った。男は焦茶《こげちや》の背広を着た小太りの体躯《たいく》で、頭部には産毛《うぶげ》程度の髪が生えている。華江も顔見知りのここの老主人らしいと、即座に察しられた。 「光本さん!」  華江は駆け寄って、老人の顔を覗《のぞ》きこんだ。彼はテラゾーの床に頬を押しつけて目をつぶっていたが、その床の上にみるみる血が溢《あふ》れ出している。急いで頭の反対側を見ると、右の|顳※[#需+頁]《こめかみ》の後ろに無残な裂傷が口をあけ、そこから鮮血が噴き出しているのだった。凶器とおぼしき銀の一輪差しとピンクのバラも、華江の足許に投げ出されていた。 「ああ、大変……しっかりして……」  華江はうろたえたように視線を泳がせたが、それはわずかの間で、すぐにまた気丈で理性的な性格を発揮し始めた。  狭い店の奥のドアが開いたままで、事務室のような部屋が見えた。そこへ駆けこんだ彼女は、流しの横のタオルやテーブルクロスなど、目につく限りの布をつかみとって、光本のそばへ戻った。老人の身体《からだ》はまだ温くて、死んでいるような気はしない。とにかく出血を防がなければ。  布を傷口にあてがい、ネクタイを緩めてやった。もう一度事務室へとって返してクッションを持ち出し、頭部を高くすると、多少は出血がおさまったように見えた。  それから彼女は、ショウケースの端にある電話機へ手をのばした。一一九番にダイヤルするのは初めての経験だった。  事件のあらましとここの場所を告げ、受話器を戻すと、思わずその上に顔を伏せて、深い息を吐いた。さっきこの店に近付いた時から今までの自分の行動を、夢中で素早く思い返した。咄嗟《とつさ》の場にしては、よくやれたような気がした。  彼女はまたなんともいえない満足の吐息を洩《も》らし、自分の左手の小指からも血が流れていることには、まだ気が付かないほどだった。    2  ジュエリー・光本の老主人、光本善次郎は、救急車で広尾の病院へ運ばれ、頭の傷を六針縫う手当てを受けた。  頭部の傷は出血が激しいので、一見非常に重傷に見えることもあるが、光本の傷は幸い浅くて、骨にも異常はなく、生命に関《かか》わるほどのものではなかった。  救急車と前後して到着した元麻布署員が現場を検《しら》べ、間もなく出先から戻ってきた光本の息子夫婦の話とを総合した結果、ショウケースの中から十数点の宝石と、ケースの内側に置かれていた小型金庫から約八十万円の現金が奪われていることが判明した。犯人は手当りしだいに鷲掴《わしづか》みしていったらしく、その辺の床には指輪やブローチが散らばっていた。宝石と現金とを合わせて被害総額は九百万円相当であろうと、息子がのべた。  彼らの話によれば、ふだんは大抵夫婦のどちらかが店にいるのだが、宝石のセールスなどで二人共留守をする時だけ、七十六歳になる父親の善次郎に店番を頼んでいく。四月十四日の事件当日も、彼が一人で店にいたところ、賊が押し入り、ショウケースの上にあった銀の一輪差しで彼を殴って失神させ、金品を奪い去ったものと推測された。  強盗傷人事件として、元麻布署で捜査が開始された。  被害者の怪我《けが》は思いのほか軽かったし、捜査本部が設置されるほどの重大事件ではなかったが、マスコミではこれが予想外に大きく報道される結果となった。それには、いくつかの理由が偶然に重なっていた。  第一に、光本善次郎がごく最近、全国紙の都内版に載った話題の人物であったこと。この二月に、彼はたった一人の孫娘を交通事故で失ったばかりだった。小学五年生の彼女が通学の途中でトラックにはねられた地点は、以前から横断中の事故が多発して、歩道橋の設置が望まれていた。そこで彼は、老後の備えにしていた預金の全額を都の建設局に寄付して、歩道橋の設置を願い出た。それがこのほど着工の運びとなり、都内版で紹介されたのだ。強盗事件の新聞記事には、「あのお爺《じい》さんがまた被害に——」といった、多分に同情的ニュアンスがこもっていた。  第二の理由は、同じ日に偶々《たまたま》、老人が若者の暴力の犠牲になるというケースが相ついで発生していた。一つは、祖母が中学生の孫に殺された。いま一つは、身寄りのない老人が高校生の二人組に、受取ったばかりの年金をひったくられた——。  翌日の朝刊では、三つの事件が社会面の上段にまとめて報じられた。テレビでも、弱い老人が青少年非行の被害者にされる現代社会の特徴を、ことさら指摘するようなコメントをのべた。  中でも元麻布の事件では、もう一人の被害者である主婦の勇敢で沈着な行動も、賞賛の的になった。宮内華江は店の前で犯人にぶつかられ、転んで左手を怪我したのだから、被害者の一人なのである。  それにもひるまず、犯人を追跡した上、倒れている光本老人を発見したあとの処置もきわめて適切で、もし彼女の応急手当てがなかったら、彼は出血多量で生命が危ぶまれたかもしれない……。  おまけに、華江は事件の唯一《ゆいいつ》の目撃者でもあった。というのは、光本は病院で意識を取り戻したものの、ショックで事件当時の状況をほとんど憶えていなかった。逆行性健忘といって、襲われる以前の記憶まで失っているので、犯人について尋ねても、まったく答えられなかった。  犯人を直接目撃し、証言できるのは、華江一人ということになる。  彼女は、現場で元麻布署員におよその事情を話したあと、光本と同じ病院へ運ばれて、傷の手当てを受けた。ガラスの破片で皮膚を切った程度なので、全治五日といわれた。捜査員は病院までついてきて、治療の前後にも事情聴取を続行していた。犯人の齢恰好、人相特徴など、華江は自信のある口吻《くちぶり》でしっかりと答えた。バイクのナンバーを見極められなかったのだけが残念だったが……。  夕方七時すぎにやっと南麻布の自宅へ帰ってきた彼女は、テレビニュースの終りのほうでさっそく事件が報道され、自分の名前が出てきたのには吃驚《びつくり》した。翌日の朝刊の記事は、またまた彼女に快い驚きと、自己満足と誇らしさとのうきうきするような興奮をもたらしてくれた。  彼女の家の電話がやたらに鳴り始めたのは、その日の昼まえからである——。  宮内華江は今年四十七歳になるが、造作の大きい派手やかな顔立ちと長身でプロポーションのいいスタイルを見れば、誰でも四十二、三くらいにしか思わないだろう。五十一歳の夫は精密機器メーカーの役員を務めている。  南麻布の家は、百五十坪余りの敷地があり、こんな一等地としては贅沢《ぜいたく》すぎる広さといえた。夫が両親から引き継いだものだが、その両親、華江にとっての舅姑《しゆうとしゆうとめ》はすでに亡《な》くなって、現在は夫婦二人暮しだった。子供も二人いるのだが、長女は商社マンと結婚して、鎌倉《かまくら》に住んでいる。長男はこの春大学を卒業して鉄鋼会社に就職し、勤務地の大阪へ移っていた。従って、華江にとってはまず文句のない状態で、女盛りの気儘《きまま》な生活が約束されていた——。  最初の電話は、事件の翌日、四月十五日の午前十一時頃掛ってきた。  庭に面したリビングルームで受話器を取った華江の耳に、 「あの、宮内華江さんでしょうか」  かん高く響く聞き慣れない女の声がとびこんできた。 「はい、さようでございます」 「今朝の新聞に出てらした奥さんですね?」 「ええ、そうですけど」 「私、あれを見て、ぜひあなたとお話ししたいと思ったもんですから」 「ああ……」  聞き慣れない声のはずで、相手は華江の知らない人だった。 「実はね、私のさとの父も、今年七十五になるの。わりと大きな屋敷だもんですから、今まで何遍も泥棒に入られたことがありましてね、それで昨日の事件が他人事《ひとごと》とは思われませんのよ。あなた、ほんとよくおやりになったわぁ」 「あら……別にただ、夢中だったもんですから」 「いえいえ、誰にでもできるってことじゃありませんよ。救急車を呼ぶ前に、お爺ちゃんのネクタイ緩めて、頭を高くしてあげたんですって? それで救《たす》かったのよ。ほんとにあなた、あの人の命の恩人だわ」 「幸い、傷も浅かったみたいで……」 「それにしても、お年寄りはちょっとしたことが命取りになりますからねぇ。おまけに、犯人の人相なんか、しっかり憶えていて、警察に知らせたんでしょう? 偉いわぁ、頭が良いのね、きっと」 「いえ、そんな……」 「一日も早く犯人が捕まるといいわね。ほんとに近頃の若い者といったら、ギャングそこのけなんですから。弱いお年寄りに乱暴するような奴《やつ》は、なにがなんでもふん捕まえて、うんと懲《こ》らしめてやらなくちゃ。あなた、これからも頑張《がんば》ってくださいね……」  相手はそんなことばを二、三回繰り返した。頑張れというのは、目撃者として今後も捜査に協力するようにという意味だろうと、受話器を置いてから華江は納得した。  一方的な長話がようやく終って、ホッとしたのも束《つか》の間《ま》、再びベルが鳴り出した。  なんとそれも、今しがたと同様の見知らぬ相手からだった。今度のほうが若い女性らしく、昨日の華江の行動を評価しながらも、自分だったらこうするとか、ああしたほうがもっと適切ではなかったかなどと、勝手な意見を並べて切ってしまった。  なるほど、これが事件の当事者に舞いこんでくる電話なのかと、華江は改めて驚いたり、感心したりさせられた。つい先頃は、三重県のほうで、隣人に預けた幼児が溜池《ためいけ》に落ちて水死した事故をめぐって訴訟が起こされ、原告と被告との両方に全国から嫌《いや》がらせの電話や投書が殺到して、当事者たちはほとんどノイローゼになったようだ。結局訴訟は取り下げになり、それがまた話題をまいたばかりだった。世間には、他人の問題に異常なほど興味を抱き、干渉したがる閑人《ひまじん》が、想像以上に大勢いるものらしい。  とはいえ、華江に掛ってくる電話は、概《おおむ》ね賞賛や激励なので、聞くほうもまるで迷惑ばかりというのでもない。華江は珍しい経験をするような気持で、半分は愉《たの》しみながら耳を貸すことにした。実際、どう考えたって、嫌がらせや非難を受ける筋合いはないのだから。  ところが、そうとばかりもいい切れないことを、間もなく悟らされた。  その日の夕方までに、知らぬ相手からの電話はあと三回掛ってきた。一回は若い男の声で、やはり華江を賞《ほ》めそやしたあと、「ぜひぼくと会って、いっしょにお茶を喫《の》んでください」などといった。  つぎは、だんまり電話だった。華江が出ても相手はひと言も発せず、数秒たってから、カチリと受話器が置かれた。  午後四時すぎに掛けてきたのは、意地悪そうな中年女の声。 「宮内さん? あなた、店に入って被害者を見つける前に、泥棒と叫んで賊を追っかけたんですってね。でもどうして相手が泥棒とわかったわけ?」  のっけから詰問《きつもん》調だった。 「だってそれは、とび出してきた様子がふつうじゃなかったし、私の目の前に指輪を落としていったんですから」  思わず華江も負けずにいい返した。 「だけど、いったんは店に入ってみて、お爺さんが倒れてたら、まず介抱するのがふつうじゃありません? それを最初から犯人を追っかけて捕まえようなんて、なんだか売名的ね」 「売名?……冗談じゃない。そんなこと考える余裕もなかったわ」 「そうかしら。被害者を発見したあとだって、あなたは傷に布をあてがったり、さんざんいじってから一一九番したように新聞に書いてあったけど、これも順序が逆ですよね。自分が被害者を救けてあげたんだって、目立ちたがりの心理の顕《あらわ》れだわ」 「まあ……いいかげんにしてくださいっ」  華江は叩《たた》きつけるように受話器を置いた。嫌がらせとはどんなふうにでもいえるものだと、呆《あき》れ返る思いがした。  もうしばらくは電話に出ないつもりで、キッチンへ行きかけた彼女は、芝生の庭を横切ってこちらへやってくる人影を認めて、再び不機嫌《ふきげん》に眉《まゆ》をひそめた。あの女は何度いっても、庭伝いに人の家へ入ってくるのだから——。 「奥さん、いらっしゃるぅ?」  隣家の主婦である大沢津和子が、勝手にガラス戸を開け、レースのカーテンも押しひろげて、浅黒い顔を覗《のぞ》かせた。 「昨日の今日で、まだ落着かない気分じゃないの? なんだかちょっとしたスターになったみたいで……」  口許《くちもと》を歪《ゆが》めていい、無遠慮に観察する眼差《まなざし》を華江の全身に注いだ。 「まさか、それほどのことでもないわ」 「でも、朝から電話が鳴りっぱなしみたいじゃないの」  昨日の夕方、例の事件をテレビで知った津和子は、さっそく庭先から駆けこんできて、華江に事のいきさつを詳しく聞き出した。嫌味なお世辞を並べて引き揚げていったものだが、今日は一日こちらの様子を窺《うかが》っていたのだろう。  華江の家のすぐ西隣に、小さな古い木造家屋が建っていて、津和子たち一家はそこを借りていた。その家と土地の持ち主は目黒のほうに住む金持ちの開業医だが、土地を手放す気はないらしく、長年そのまま所有しているお蔭《かげ》で、津和子たちもずっと家を借りていられるのだそうであった。本当は彼女らが居すわって立ち退《の》かないのではないかと、華江は睨《にら》んでいる。この麻布|界隈《かいわい》は、都内でも指折りの高級住宅地に数えられているが、各国の大使館や、外交官たちの住む瀟洒《しようしや》な洋館なども数多く集っている間に、ところどころ、雑草の生い繁る空地や、長年手入れもされない老朽家屋が混っているのだった。 「まだ当分はあなたのことが評判になりそうね。なんだかそんな予感がするわ」  津和子は白々しい声でいって、急に話を変えた。 「それはそうと、昨日お願いするのを忘れてたんだけど……また洋服を貸して頂けないかしら?」  華江は不快さを露骨に顔に表わしたが、そんなことにはお構いなく、津和子は唇《くちびる》をまくりあげるような独特の喋《しやべ》り方で続けた。 「明日の土曜が高校のクラス会なの。うちには熱心な幹事がいてね、毎年やるのよ。それじゃあまさか、去年とおんなじ服も着ていけないでしょう。かといって、今の時期はほんとに着るものが難しくってねぇ……」  なんて厚かましい女!  華江はこれまでいく度となく心の中で毒づいたことばを、今もカッとなる思いで繰り返した。華江より二歳年下の津和子にも、夫や子供がある。夫はどこかの病院の事務職員らしく、高校生を頭《かしら》に三人の子供のいる家庭は、華江のところとは比べものにならないほど貧しそうだが、だからといってこちらが彼女を扶《たす》けてやらなければならないという筋合いはないのだ。ところが津和子は、三日にあげず、遠慮|会釈《えしやく》もなく物を借りに来る。調味料や酒類、ドレスに装身具。ドレスは汚点《しみ》をつけたり、汗ばんだまま平気で返してくるし、一方、口に入れて消えてしまうものは、返す必要などないと心得ているらしい。しかも借りにくる時の態度といったら、まるで華江が津和子にそれくらいのことをするのは当然だといわんばかりなのだ。  あの押しつけがましい上目使い、口許を歪める下品な物言い、常時汗と垢《あか》を溜《た》めているようなぬめりとした首筋まで、華江は津和子を見るたびに嫌悪《けんお》と貶《さげす》みのあまり身体《からだ》が震えそうになる。 「やっぱり薄手の長袖《ながそで》がいいわね、今頃《いまごろ》は。シルクか麻かしら。何枚でも持ってらっしゃるでしょ、奥さん。でも、ほんの普段着でいいのよ。幸い奥さんとあたしとはタイプが同じで好みも似てるから、奥さんの服なら大抵私に合うみたいよ……」  後ろでまた電話が鳴り出した。生理的嫌悪から逃れるために、華江はさっそくそちらへ戻《もど》っていった。 「明日の朝でもいらしてよ」  津和子に背を向けてそういい、華江は受話器を取った。  騒がしいロックの音楽が耳を塞《ふさ》ぎ、もっと耳近くで若い男の掠《かす》れ声が呼びかけた。 「宮内華江さんの家ですか」 「はい、そうです」 「あんたが華江さんですか」 「ええ……」  電話に出たことを後悔しながら、華江は答えた。突然、相手の声が恫喝《どうかつ》を帯びた。 「おい、警察に余計なこと喋るんじゃねえぞ」 「え?」 「いい気になってペラペラ喋ると、ただじゃ置かねえからな」  モーターバイクにまたがって華江を睨《ね》めつけた凶悪な人相が、彼女の眼前に浮かんだ。 「いいか、憶《おぼ》えとけ。これ以上|俺《おれ》のことをサツに喋ったら、ブッ殺してやるからな」    3  翌日の土曜日も、華江の家の電話はふだんの倍以上の頻度《ひんど》で鳴り続けた。実家や知人からもあったが、大半は見知らぬ相手で、そのほとんどが好意的な内容だった。こちらが女のせいか、やはり女性が多いが、たまには年配らしい男の声も混っている。犯人の人相特徴をつぶさに尋ねてきた女もいた。華江がなんとなくいい渋っていると、 「実は、恥をお話しするようですけど、うちの息子が、齢《とし》は十八で、高校三年なんです。でもほとんど学校へ行かないで、毎日オートバイを乗り廻《まわ》しています。髪を茶色に染めてまして、一昨日はジーンズのジャンパーを着て出たようですので、新聞に載ってた犯人の服装とそっくりなもんですから……」  男の声で掛ってくると、華江は昨夕の電話を思い出して、胸がこわばった。実際脅迫めいた電話も一回あったが、その相手は昨日の掠れ声とはどうやら別人らしかった。  昼すぎには郵便配達が回ってくる。そのあとでは、束にしてくくった郵便物が玄関|脇《わき》の函《はこ》へ押しこまれていた。  紐《ひも》をほどいてみると、憶えのない差出人からの手紙と葉書が三通も混っていた。  華江が玄関先でそれらを読んでいる時、チャイムが鳴った。夫は今朝からゴルフに出掛けて、この家には今華江しかいない。彼女は急いでドアのチェーンを掛けてから、「どちらさまですか」と訊《き》いた。 「元麻布署の者ですが」  ドアのレンズから覗くと、事件の日にジュエリーと病院との両方で華江に事情聴取した中年刑事の顔が見えた。華江は掛けたばかりのチェーンを外して、ドアを開けた。 「どうですか、電話はまだ掛ってきますか」 「ええ、昨日よりは少くなったみたいですけど……」  昨日の四時頃、掠れ声の男の脅迫電話があった直後、華江は元麻布署に電話をして、そのことを伝えた。すると、今目の前にいる刑事がもう一人若手を連れてここへやってきて、相手の声の特徴などを詳しく尋ねた。 「ジュエリーに押し入った犯人は、人を殺してはいないからね。たぶんその電話もほかの人間のイタズラだと思いますがね……」  強盗傷人の犯人が、目撃者の口を塞ぐために殺人を犯したりすれば割に合わないだろうというのが、彼の意見らしかった。 「だけど、ドスのきいた、とても怖い声でしたわ」 「とにかく、お宅の付近のパトロールを強化するよう手配しておきましょう」と彼はいって、リビングルームの電話機に小型テープレコーダーを取りつけていったのだった……。 「でも今日もいろんな人から掛ってきて、脅しめいたのもありました。昨日の男とは声がちがうようでしたけど」 「昨日の掠れ声とはちがっていた?」  念を押して、華江が頷《うなず》くと、刑事はどこか安堵《あんど》した表情を浮かべた。 「やっぱりそういう悪質なイタズラをする人間が、世の中には大勢いるんですな」 「今日はまたこんな手紙が……」  華江は読んだばかりの三通を彼に示した。彼も目を通して、 「概《おおむ》ね励ましや賞賛という感じですね」  中には光本善次郎の友人からの、感謝の手紙も混っていた。 「それにしても、ちょっと新聞に出ただけで、電話や投書がこんなに来るなんて、思ってもみなかったわ」 「今はそういうことが流行《はや》るんでしょうな。この間の隣人訴訟では、当事者たちがひどい嫌《いや》がらせに耐えかねて、とうとう訴訟を取り下げてしまった。それで法務省が、国民に慎重な行動を訴える異例の見解を発表したばかりでしょう? だけどその程度では、効果はないようだね」 「そういう嫌がらせをする人は、どんな心理なのかしら」 「大抵が匿名《とくめい》だからね。一方的に相手を傷つけるだけの卑劣なやり方ですよ。隣人訴訟のケースでは、ごく一部の身許のわかった電話や投書の主に、新聞記者が取材した時の談話が載っていたけど、ほとんどみんな、その時は思わずカッとなってやってしまった、でも今では後悔してるなんていってましたよ。要するに、なんかしら鬱憤《うつぷん》を抱えている人間がいて、いつでもその捌《は》け口を求めてるってことでしょうかね」  刑事はリビングに上って、昨日電話機に装着したテープレコーダーを再生してみた。知人から掛ってきた時には華江がスイッチを入れなかったので、知らぬ相手との通話だけが録音されている。 「なるほど、こいつは全然掠れ声ではないし、まるでテレビドラマの台詞《せりふ》そのままだな」  二回目の脅迫めいた電話の録音を聞いて、刑事は馬鹿《ばか》にしたように笑った。 「夜歩きなどは控えて、用心していただくに越したことはないですが、まあ、二、三日もすれば、投書や電話もなりをひそめるでしょう」 「強盗犯人はまだ捕まらないのですか」 「いや勿論《もちろん》、それも時間の問題ですよ。あの宝石店の少し先のビルには、暴走族なんかの集るスナックと、その二階には最近サラ金が入っている。そこらに出入りする人間を、目下|虱潰《しらみつぶ》しに洗っているところです」  刑事が引き揚げていったのと入れちがいに、津和子が庭伝いにリビングの外へ走り寄ってきた。 「お客さんみたいだったから、待ってたのよ。急がないと時間に遅れちゃうわ」  ドレスを借りに来たのでありながら、彼女はじれったそうに華江を睨んだ。高校のクラス会は、二時から渋谷のレストランで開かれるということだ。 「ここで着替えて行けば早いんじゃないの」  華江ははぐらかすような感じで答え、奥の部屋から用意しておいた服を取り出してきた。グレーの地に淡いオレンジ色で罌粟《けし》の花を描いたコットンのワンピース。生暖かい今日のような午後の会合にはもってこいの服だろう。 「あら、素敵ね。こんなの、いつ作ったの」  服を手にとると、津和子は小鼻を膨らませ、布地に目を近づけた。それで華江は、ワンピースの裾《すそ》と、袖や胸にもうっすらと残っている汚点《しみ》に気付かれはせぬかと心配になった。ジュエリーの事件のあった一昨日《おととい》の夕方、津和子がここへやって来たのは、華江がもう着替えをしたあとだったから、彼女はそれが、華江が事件当時に着ていた服だとは知らないはずなのだ。あの日家へ帰ってから調べると、やはりあちこちに血が付いていたが、思ったほどの量ではなく、すぐに水洗いして、よく見ればうすい汚点が残っているという程度まできれいになった。  とはいえ、もう二度と袖を通す気にはなれない。昨夜華江は、それを津和子に貸してやろうと思いついた。大切にしていた服を強引に借用されてしまったことだって、これまで何度あったかわからないのだから——。  津和子はまず満足したという顔付で頷いた。 「じゃ、遠慮なく、今日はこれを着させていただくわ。だけど、胸元がちょっと寂しくない? ネックチェーンか、パールのネックレスでもあしらったほうが、服がひき立つんじゃないかしら?」  無論それも貸してほしいという意味だ。華江は仕方なく、宝石類の置いてある奥の部屋へ入ると、津和子も無断でついてきて、大粒のパールのネックレスと、対《つい》の指輪を自分で選び出した。 「ありがと。華江さんって、ほんとにご親切ね。でもその代り、あたしだって、いつでもあなたのためを思っているつもりよ。どんな場合にも、あたしはあなたの味方なんですもの」  この家で服を着替え、アクセサリーもつけた津和子は、含みのある口吻《くちぶり》でそういい残して出ていった。  午後にも電話は掛ってきたが、その数は急に少くなった。脅迫的な電話や、変った内容のものもなくなった。録音を取るために電話には全部出るようにと、刑事にはいわれていたが、華江はそろそろ面倒になり始めた。  午後三時頃、彼女は近所に一軒だけあるイタリアンレストランまで歩いて行き、中途|半端《はんぱ》な食事をして帰ってきた。夫は箱根へゴルフに出掛けて、道路の混《こ》み具合によっては、帰りは夜遅くなるかもしれないといっていた。こんな日には華江もどこかへ遊びに行きたいところだが、夫や刑事から、あまり出歩かぬほうがいいと止められていたので、今日くらいは自重することにした。  うっすらとした雲のかかった、空気の甘い陽春の午後が、ゆるやかに推移して、夕暮れが忍び寄ってきた。  六時頃になると、華江は夕食までの運動がてら、庭へおりた。軍手をはめた手に柄《え》の短い鍬《くわ》を持って、芝生の庭の中ほどにある花壇のそばにしゃがんだ。今はチューリップやクロッカスの咲き乱れている花壇には、しばらく怠けていた間に雑草が伸び放題になっている。雑草を引き抜いては、まわりの土を鍬で均《なら》した。  一人で土いじりをしている時ほど、華江は自分の人生や生活についての感慨に耽《ふけ》ることはない。もっとも近頃では、それは熟年から老後までの設計が早くもすっかり整っているという満足感に浸ることだった。五十一歳の夫は、四十代から頭が頽《は》げて、生真面目《きまじめ》なばかりでおよそ面白味《おもしろみ》の少い人だけれど、その分だけ、よその若い女に現《うつつ》をぬかすような心配は少い。日常生活では、華江の自由をほとんど許してくれている。二人の子供はそれぞれ独立して、今後は自分の力で人生を渡っていくだろう。この家と土地は夫のものだから、ローンに追われる気遣いもなく、これからはいよいよ気儘《きまま》な暮しを思うさま愉《たの》しむことができるだろう。  華江は昔から、物事の手回しが人一倍早いほうだった。だから条件の揃《そろ》った縁談にぶつかったのを幸い、早めに結婚して、若いうちに子供を産んだ。お蔭《かげ》でまだ四十七歳なのに、こんなに満ちたりた生活を自分のものにすることができるのだ。  いや、満ちたりた生活というのは、いささか当っていないかもしれない。たとえば、夫に魅力が乏しくて、せいぜいひと月に一遍くらいしか付合いのない不満を、華江は自分の知恵で補うことにしている。それはつまり、若い愛人を拵《こしら》えることだったが、その相手の選び方には十二分の配慮を怠らない。なるべくハンサムな良家の子弟で、しかも自分の人生にはそれなりの夢や野心を抱いていること。そんな青年なら、齢相応のガールフレンドはいくらでも見つかるはずで、いつまでも華江一人に執着するとは思えない。年上の人妻との情事は、しょせん一時の気まぐれにすぎないのだから、そのために将来を台なしにするほどのめりこむ心配もないだろう。時期がすぎれば、華江に飽きて離れていくのが自然の成り行きで、彼女にとってもむしろそれが望ましかった。  勿論、そんな都合のいい相手が、いつでも彼女の身辺にいるわけではなかったが、その気で機会を捜せば、また案外めぐり会えるものだ。  石川保も、華江の条件に適《かな》った一人だったが……。  この春大学を卒業して、中堅の製薬会社に就職した彼は、郷里に近い金沢支社の勤務を希望して、そちらへ赴任していった。これで華江との間も、波風立たずに自然消滅するだろう。  石川との記憶は、華江にとってしごく満足なはずなのに、彼女の心の隅《すみ》には、何かザワザワとした落着かない感情が混りこんできた。すぐにその理由に気が付くと、華江の鍬を持つ手が知らず知らず止まっていた。  私としたことが、あれはなんという失敗だったことか……。  若い愛人ができると、華江はもっぱらその相手と、昼間この家で会うことにしていた。街でデートしたり、ホテルで逢曳《あいび》きしたりするから、人目について言い逃れのできない破目になるのだ。家族の帰る気遣いのない時間にここへ呼び、母親風の手料理でもてなしてやり、来客用の寝室で情事を持つ。これくらい安全で快適なやり方はないと、華江は信じていた。  あれは昨年の十一月、例によって石川をリビングに上げ、カクテルを飲みながらちょっとふざけてソファで絡《から》みあっていた時、いきなり津和子が庭伝いに入ってきたのだった。  一目で状況を察した津和子は、一瞬まるで勝ち誇ったような笑いを浮かべたが、その場はすぐに姿を消したから、石川は気が付かなかったらしい。  調味料だけではなく、津和子がのべつ洋服や宝石を借りにくるようになったのは、あれ以後のことだ。その都度、皮肉たっぷりに言い添える。あたしだって、あなたのためを思っているつもりよ。あたしはいつでもあなたの味方なんですもの……。  もともとあの女は、性格が厚かましいだけでなく、心の底に陰険な嫉妬《しつと》を貯《たくわ》えているから、ことばにも悪意の棘《とげ》がこもっているのだ。  別に、服くらい貸してやればいい、その程度であしらっておけるなら……と、華江は自分をなだめていたが、それにしても、虫唾《むしず》が走るほど嫌《きら》いな相手に、のべつ嫌味をいわれ、どんな図々《ずうずう》しい頼みも聞いてやり、顔には笑いを浮かべて付合っていなければならないなんて、なんという忌々《いまいま》しさだろう!  思えば思うほど、華江は肚《はら》が煮えたぎってきた。  いや、今のままではすまないかもしれない。あの女はこの先まだどんな貪欲《どんよく》な要求を持ち出さないとも限らない。それでも自分は従わなければならないのだ。そうやって一生あの女に付きまとわれるのではないだろうか?  いや別に、そこまで思い詰めなくても——と、華江はまた怒りを紛らそうとした。あんな女、まともに相手にしなければいいのだから。それにしても、せめて一遍だけ、思いきりあの恥知らずな顔をひっぱたいてやれたら……! 「何やってんのよ、そんなとこで」  突然後ろから声をかけられ、華江はとびあがりそうになった。事実、反射的に立ち上っていた。  振り向くと、津和子が間近に立っていた。 「いつまで庭いじりなんかやってるつもり? もうこんなに暗くなってるのに」  津和子は歯ぐきを出して嘲笑《あざわら》い、臭い息が華江の鼻腔《びこう》を直撃した。  が、津和子はふっと声をのんだ。華江の表情に異様なものを感じたのだ。ほんの何秒か前まで、華江の内部に燃えさかっていた憎悪《ぞうお》が、その顔に現われていたのにちがいない。 「何よ、その目付きは。何だかあたしにいいたいことでもありそうじゃないの」  津和子は酒で赤らんだ顔を、華江の鼻先に突き出した。 「気色が悪いわねぇ。文句があるならいったらどうなのさ。これを貸したことが気にくわないとでもいうの?」  津和子の太い指が、パールのネックレスを切れそうなほど引っ張った。 「フン、何さ、これくらい。大体ねぇ、あんたなんか、あたしにどんなことをしてくれたって、しすぎってことはないんだよ。わかってんの、あたしの出方一つで、あんたはあたしに這《は》いつくばって頼まなきゃならないことが——」  パールの白さが華江の網膜にひろがった。その向うで、津和子が口を動かしているが、声はもう華江の耳に聞こえなかった。自分自身の声にならない絶叫に耳を塞《ふさ》がれて、華江は右手を振りあげた。津和子の顔面をひっぱたくつもりだったが、咄嗟《とつさ》に相手が顔をそむけたので、手にしていた鍬の刃先が彼女の首筋にくいこんだ。津和子が逃げようとしたので、華江は夢中でもう一度打ちおろした。それは後頭部に当り、津和子は崩れるように芝生の上に倒れた。  急に静寂が襲ってきた。華江がそう感じたのは、耳の中の絶叫が止《や》んだからかもしれなかった。  華江は足許《あしもと》に目を落とした。俯《うつぶ》せに倒れた津和子の頸動脈《けいどうみやく》のあたりから、血が盛り上るように溢《あふ》れ出ている。しゃがんで身体《からだ》を揺すった。何の手応《てごた》えもなかった。顔の下に手をあてがってみたが、呼吸をしているようではない。もうとても助けられないだろう……。  今度は庭中に視線をめぐらせた。誰《だれ》か見ていた者はいなかったか?——だが、それも見極められないくらい、周囲はすでに夕闇《ゆうやみ》に塗りこめられていた。  彼女は再び津和子に目をやった。  ああ……私としたことが!  しかし、彼女が呆然《ぼうぜん》としていたのは、自分の感じよりずっと短い時間だった。  死体をどこかに隠そうか?  いや、それはしないほうがいい。下手な擬装はかえって余計な証拠を作るだけだ。  津和子の身体にはもう指をふれず、鍬を拾いあげて、家の中へ走りこんだ。  返り血を浴びていたブラウスとスカートを脱ぎ、浴室のそばにある全自動式の洗濯機《せんたくき》へ放《ほう》りこんだ。浴室へ入って、顔と手足を洗ってから、鍬に付いた泥《どろ》と血も洗剤で洗い流した。  それを、勝手口の土間の、スコップや芝刈|鋏《ばさみ》などほかの道具が置いてある場所へ戻《もど》した。  キッチンの椅子《いす》に浅く掛けて、壁の時計を見あげると、六時五十分になろうとしている。  華江はすぐにまた腰をあげた。こうしてはいられない。一刻も早くアリバイを作らなければ。  リビングにある引出しから便箋《びんせん》を取り出して、走り書きをした。 〈洋服は明日でけっこうです。  津和子さま      華江〉  別の服を着て、化粧をするのは、十五分ですませた。  ハンドバッグを抱えて玄関から外へ出た彼女は、折り畳んだ便箋をドアの下に挟《はさ》んだ。  閑静な住宅地の道路には、人影が途絶え、家々の門灯に照らされている路面だけが、ほの白く浮かび上って見えた。  華江は自分の車に乗って、エンジンをかけた。  こういう時こそ、事故を起こさないように気をつけなければと、必死で自分にいい聞かせていた。    4  助手席に乗った案内の警官が「この家です」と指さしたところで、運転手は車を停《と》めた。和洋折衷の贅沢《ぜいたく》な感じの二階建、白い石の門柱の上に〈宮内〉のプレートがはめこまれている。付近の路上には、警察の車らしいものが数台駐《と》まっていた。  車を降りしなに、霞夕子《かすみゆうこ》は腕時計をすかして見た。あと五分で九時になる。  現場保存の縄《なわ》をくぐって門内へ入り、玄関の左手から庭へ回りこもうとすると、そこに立っていた制服警官が驚いて道を塞いだ。 「待ちなさい、あんた——?」  咎《とが》めかけたが、あとに続いている男たちに気が付くと、彼はちょっと勝手がちがう顔で口をつぐんだ。  小柄《こがら》な夕子は、背の高い警官を一度|揶揄《からか》うように見あげてから、足許に敷かれている板を踏んで、庭のほうへ歩き出した。  生垣《いけがき》に囲まれた芝生の庭の中ほどに、花壇があり、その手前に十人余りの人影が屯《たむろ》していた。こちらには夕子の顔見知りが大勢いて、「どうもご苦労さま」などと声をかけて場所をあけた。  被害者は、芝生の上に、仰向《あおむ》けに横たえられていた。四十代なかばくらいの女で、首から胸にかけて夥《おびただ》しい血に染まっていた。現場服を着た鑑識課員らが、死体のそばに屈《かが》んで、まだ検証を続けている。  夕子が一通り見たところで、本庁から派遣されていた屈強な体格の警部補が、それまでに判明していたことを彼女に説明した。 「頸動脈に損傷を受けていて、死因は出血多量ですね。後頭部にも一箇所傷がありますが、それはさほど深くはありません」 「凶器は?」 「傷口の様子から、斧《おの》か鍬《くわ》のような刃の厚いものではないかと、鑑識はいってるんですが、まだ見つかっていないのです」 「被害者の身許はわかっているの?」  夕子はつとめて声をひそめて訊《き》いている。 「それがまだはっきりしないんです。事件を通報してきたのはこの家の主人で、今日は箱根へゴルフに行ってたそうですが、予定より早く帰ってきて、八時すぎ頃《ごろ》家に着いた。誰もいなかったので自分の鍵《かぎ》で家へ入り、庭先を見ると、人が倒れているみたいなので、驚いて出てみて、ここで被害者を発見したというわけです」 「この家の奥さんではないわけね」 「ええ、しかし見憶《みおぼ》えのある顔だから、家内の友だちかもしれないと……」 「近所は聞いて廻《まわ》ったの?」 「それがあいにく、隣も向かいもみんな留守なんですよ」 「こんな夜に? 近頃は外食が多いからかしら。主婦が休日には料理を作らないんだわ」 「ここの奥さんが見ればわかるんじゃないでしょうか。ご亭主《ていしゆ》の話では、自分が遠出する時には、家内もよくよそへ出掛ける。最近横浜の元町で従妹《いとこ》がスナックを開業したので、そちらへ遊びに行ってるんじゃないかというので、電話を入れてみると、やはりそこにいました。自分の車で、間もなくこちらへ帰ってくる頃です。ご亭主からも、もっと詳しい事情を聴いているところなんですが」  警部補は家の中を目で示した。小柄な男が二人の捜査員と対座していて、彼の頭部が明るい電光を反射していた。  今のところ、被害者の死亡推定時刻は、今日の夕方六時半から七時の間くらいと見られていると、彼は付け加えた。  夕子は再び死体のそばへ戻った。被害者の顔はなるべく見ないようにして、その周辺に観察の目を走らせた。  そばの芝生に血がとび散っている様子からして、犯行がこの場でなされたことはまちがいないだろう。被害者は遠くから訪ねてきたものか、外出着を着て、パールのネックレスをかけている。 「ガイ者もかなり裕福な家庭の主婦ではないですかね」  そばにいた若手の刑事が、警部補の顔を見上げた。 「着ている服も、装身具も、相当高級品のようですから」 「ほんと。この服はスイス・コットンと襟《えり》の後ろに書いてあるわ。パールも本物みたいねぇ」  突然夕子が意見を吐くと、その場にいた者の視線がいっせいに彼女に注がれた。警部補の説明を聞いていた間は、せいぜい声を落としていたのだが、彼女が自然な感じで発声すると、その声はとび抜けてよく通る上に、なんとも独特のゆるりとしたトーンを含んでいるので、どうしても人の注意を惹《ひ》かずにはおかない。その上、シャツブラウスに今風の腰の膨らんだパンツを着けた小柄な身体、目が大きくて頬《ほお》のふっくらした、さほど美人ではないが愛敬《あいきよう》のあるお多福顔をした四十すぎの女など、こんな現場にはおよそふさわしからぬ存在なのだった。 「だけど、服に比べて、靴《くつ》とバッグは質素なものですよねぇ。大分使い古してもいるようだし」  芝生の上に転がっていた黒革のバッグが、今は被害者の足許に置かれていた。それとまだ彼女がはいたままの黒いサンダルシューズを眺《なが》めて、ほかの者は夕子の指摘がまちがっていないことを認めざるを得なかった。 「それと、さっきからなんだか気になっているのは、指輪のサイズが合ってないみたいなのねぇ。ほら、パールの指輪を左の小指にはめてるでしょう? 薬指にも、リングが食いこんだ跡が残ってるわ。まるで最初は無理して薬指にはめてみたけど、抜けなくなるのが心配になって、途中で小指にはめ替えたみたいな……」 「ということは、つまりこの女性は——」  誰かが夕子に反問しかけたのとほとんど同時に、元麻布署の刑事課長がふいにことばを挟んだ。 「いや実は、わたしも一つひっかかっている点がありまして……というのは、この家の主婦の宮内華江さんは、つい二日前、うちの管内の宝石店で発生した強盗傷人事件の唯一《ゆいいつ》の目撃者であって……」  続いて、庭の隅《すみ》にざわめきが感じられ、黄色っぽい服を着た大柄な女が、警察官と並んでこちらへやってくるのが見えた。 「あ、あの人ですよ。奥さんが帰ってきたんだ」  刑事課長が呟《つぶや》いた。  宮内華江は、仰向けにされた血まみれの遺体のそばに立った途端、「ウッ」と声を洩《も》らして顔をそむけ、よろめくように二、三歩|後退《あとずさ》りした。捜査員や夕子たちには、香水のふんだんな匂《にお》いが場ちがいな甘さで鼻に染《し》みた。 「知ってますか、この人を?」  本庁の警部補が尋ねた。華江は両手で鼻と口を押さえたまま頷《うなず》いた。 「津和子さん……お隣の奥さんです」  華江は自宅の西側を指さした。平屋《ひらや》らしい瓦《かわら》屋根が生垣の上に覗《のぞ》いている。 「あの家に住んでて、いつもよく……」  華江はショックのためか、声を途切らせた。 「よく庭伝いにうちへいらしてました」 「庭伝いに?」 「あ……ええ、あの、生垣の間から」  彼女がもう一度指さしたほうを透かし見ると、生垣の一部に隙間《すきま》があいていて、ちょうど人が出入りできそうだ。 「なるほど。では今日も、何か用事があって、お宅へ来たわけでしょうね」 「ええ、たぶん……洋服なんかを返しにいらしたんじゃないかと……」 「洋服を?」 「今日は高校のクラス会があるとかで、私、この服とネックレスなんかを貸してあげたんです。津和子さんと私とは、大体サイズが同じなもんですから」 「すると、つまりこの服とネックレスは、奥さんのものだということですか」 「ええ、指輪も」  捜査員たちの視線が、チラリとまた夕子に注がれた。 「私たち、日頃からとても親しくお付合いしてましたので……」  華江は唇《くちびる》を噛《か》んでうつむいた。警部補が改めて尋ねると、被害者の女性は大沢津和子、四十五歳だったと、華江は気をとり直したように答えた。 「クラス会は渋谷のレストランで、午後二時から五時までと聞いてました。ちょっと二次会へ出るとしても、夜までには借りたものを返しにいらっしゃるだろうと思ったんですけど……私も今日は横浜へ出掛けることにしたもんですから」  夫の帰宅は、高速道路の混《こ》み具合によっては、夜中になるかもしれないと聞いていた。一人で家にいると、また例の事件のことで知らない人から電話ばかり掛ってくるので、従妹の始めたスナックへ遊びに行くことにしたと華江は説明した。 「この家を出られたのは、何時頃ですか」 「ええっと……」  華江はしっかりした目を宙に凝らして記憶をたぐるふうだ。 「五時半頃から仕度をはじめて……出掛けたのは六時ちょっとすぎくらいでしょう」 「元町のスナックへ着いたのは?」 「七時半前後かしら。高速道路を通っていきましたけど、私はいたって安全運転のほうですから」 「じゃあ、奥さんがここを出られたのと入れちがいくらいで、津和子さんが洋服を返しに来たということでしょうね」 「ああ、それで、出がけに玄関のドアの下に置手紙を挟んでおいたんですけど」  華江は急に思い出したようにいった。 「置手紙?」 「津和子さん宛《あて》に、洋服は明日でいいからって」  捜査員が急いで玄関へ回り、周辺を捜した結果、その手紙は玄関の内側の飾り棚《だな》の上に置いてあるのが見つかった。華江の夫に尋ねると、 「ああ、確かにそれが挟んでありました。ぼくにはわけがわからなかったので、棚の上に置いといたんです」と答えた。その後の騒ぎですっかり忘れていたそうである。  今のところ、津和子は手紙に気付く前に、庭へ回り、花壇のそばで斜め後ろから襲われたという状況が推測された。 「ところで、二日前の強盗事件についてですが——」  その件になると、元麻布署の刑事課長が華江の聴取に当った。刑事課長は丸い顔で目尻《めじり》の下った、人の好《よ》さそうな風貌《ふうぼう》をしている。 「投書や電話がずいぶん奥さんのところへ来ていたようですね」 「そうなんです。私、吃驚《びつくり》しちゃって……」 「今日の昼すぎにうちの署の者が伺ったはずですが、それ以後にも掛ってきましたか」 「ええ、何回か。夕方からは面倒くさくなって出なかったですけど」 「電話の内容は?」 「まあ大体は、よくやったとか、今後も犯人逮捕に協力するようにとか……」 「なるほど。すると、脅迫的な電話は、今までのところ二回ですね」 「ええ……でも、二回ともほんとに怖い声で、俺《おれ》のことをサツに喋《しやべ》ったら、ブッ殺してやる、なんて……」  華江はふいに何かに思い当ったように息をのんだ。顔をこわばらせて、足許《あしもと》の死体に目をやった。一同の視線も再びそこへ集り、わずかの間、その場は緊張を孕《はら》んだ沈黙に支配された。 「被害者と奥さんとは、およそ体格が同じだったということですね」  刑事課長が呟いて、自分の目でそれを確認した。 「しかも、被害者は今日奥さんの服を着て、庭伝いにこの家へ入ろうとした……」 「もし万一、強盗犯人が奥さんを狙《ねら》って、この近辺に潜んでいたと仮定したら……」  捜査員たちが感じたままを口に出した。 「いかにもまちがいやすい状況ですよ。服まで奥さんのを借りてたというんでは……」 「ねぇ、宮内さん、あなた、もしかしたら……」  はじめて夕子が華江に話しかけたので、華江は目をむいて相手を見返した。 「今日彼女に貸してあげたこの服は、もしかしたら、強盗事件の時にあなたが着てらした服じゃありません?」  よく響く声で、どこか試されているみたいな感じもする悠長《ゆうちよう》な喋り方——。 「え、ええ……そういえば……」  なぜか華江は心臓の鼓動が疾《はや》くなるのを覚えながら頷いた。 「彼女がこの服を気に入ってたもんですから」 「やっぱりねぇ。だって、そうでなければ、犯人だってこの服があなたのものだとはわからなかったはずですもの」  津和子の遺体は、解剖の行われる大学病院へ移されるため、車へ運びこまれた。  捜査員たちの輪が崩れた時、華江は多少顔見知りの刑事課長に低声《こごえ》で尋ねた。 「あの女の人は、誰《だれ》なんですか」 「検事ですよ」  課長は眉《まゆ》をひそめていっそう目尻をさげた、複雑な面持《おももち》になって答えた。 「検事? 女なのに?」 「女性検事もたまにはいますけどね。彼女は方面主任といって、中央区や港区などの方面で発生する事件を扱う検事の主任なんです。女性では初のキャップでね。まあ、どこか向いてるんでしょうが、世の中も変ってきたものですよ」    5  二日後の午後一時すぎ、東京地検三階刑事部の一方面主任の部屋で、主任検事のデスクの電話が鳴った。  その席に掛けていた霞夕子が受話器を取り、二、三分通話していたが、「わかりました。よろしく」と答えてそれを置いた。  通称キャップと呼ばれる方面主任検事の部屋には、その傍《かたわ》らに検察事務官が掛け、反対側の両端に、まだ任官して間のない新任検事と、主任捜査事務官のデスクがある。いわば相部屋で、キャップ、新任検事、主任捜査事務官は、各人が別の事件を担当し、それぞれ被疑者や参考人を呼んで調べるのである。  夕子は大きな目を検察事務官の桜木に向け、声をひそめて囁《ささや》いた。 「宝石店荒しの容疑者が挙ったそうだわ」 「元麻布のですか」 「ええ。近くのサラ金に出入りしていた若い男で、今しがた犯行を自供したって」 「へえ……それじゃあ、一昨日《おととい》の殺人事件も解決するわけでしょうか」  夕子はちょっと首を傾《かし》げただけで、 「とにかくこれから本格的な取調べを開始するそうよ」  元麻布署からの電話だったことは、桜木にもわかっている。警察署からは、事件の捜査経過が、担当検事に逐一報告されてくる。  桜木洋は今年二十六歳、この三月に夕子が一方面主任に任命されて以来、彼女とコンビを組んで仕事をしている。逆三角形の顔に黒縁眼鏡をかけた彼は、一見|生真面目《きまじめ》な秀才風だが、内実は趣味が広くてスポーツ好きといった現代青年の特徴も十分に備えている。彼は常々、テレビドラマに現われる検察事務官が、年寄りで陰気くさいことに不満を抱いている。実際には、二十代から三十代前半の快活な男性がほとんどなのだから。  検察事務官は、終日検事のそばで取調べに立会い、その結果を記録に取り、検事が外出するさいにもいっしょに付合う。常時行動を共にしているので、両者はよく夫婦にたとえられるが、検事が年上の女性の場合にはどういうことになるのだろう? さしずめ母子《おやこ》とでもいったところかと、桜木は多少居心地の悪いような気持で感じている。  霞夕子は四十二歳になり、任官十七年目。あちこちの地検の公判部と刑事部を経験したのち、東京地検四方面の方面係を二年務め、今年の三月に一方面主任に任命された。因《ちな》みに、東京地検刑事部では、警視庁の方面区に対応して、一方面は丸の内、築地《つきじ》、麻布|界隈《かいわい》、二方面は品川、大森、三方面は渋谷、四方面は新宿中心……といった具合に都内を八方面に区分し、それぞれに方面主任一名と数人の担当検事を配置している。  桜木事務官は、霞夕子に引き合わされる前、男勝りで見るからに冷静沈着なタイプを想像していた。現在全国に千人余りいる検事のうち、女性は三十人に満たず、その大半が公判部に属している。刑事部で被疑者の取調べに当っている女性検事も少しはいるが、東京地検でキャップになったのは彼女が最初だったからである。  が、実際に会ってみると、小柄《こがら》な夕子はむしろ可愛《かわい》らしく、親しみの持てる素朴《そぼく》な顔立ちをしていた。性格もおっとりとして、気の長いほうではないかと思った。それは主に、彼女の喋り方から受けた印象だったが。  ところがまた、半月もたたぬうちに、彼女はかなりのせっかちで、おそろしく行動的なことにも驚かされた。昼間はほとんど休憩もなしに、つぎからつぎへと被疑者や参考人を呼んで取調べを行い、そのぶんあいた時間は、夕方から拘置所や警察を回るという精力的な仕事ぶりが、それを物語っていた。  してみると、あのなんともいえない悠長な物言いは、どこから生まれたものなのだろうか?  桜木にとって、夕子の人柄は、まだ霞《かすみ》のようにつかみどころがない——。  元麻布の宝石店荒しの被疑者は、逮捕から四十八時間後に当る四月二十日午後に、地検へ送致されてきた。事件は夕子の担当になっているので、彼女は送致書を一読した上で、地下の同行室まで連れてこられていた被疑者を部屋へ呼んだ。被疑者の名は舟越正一、二十歳。容疑は「強盗傷人」と警察の送致書には記されている。  押送人《おうそうにん》の巡査に連れられて入ってきた舟越は、茶色の縮れ髪を長めに垂らし、頬《ほお》のこけた艶《つや》のない顔をしていた。身長百七十五センチ余りの骨太な体躯《たいく》で、目撃者の宮内華江が最初に証言したという人相特徴と見事なほど一致していた。  夕子はデスクの上の送致書類を開いた。その中にある身上紹介によれば、舟越の父親は二年ほど前から定職がなく、ギャンブルに凝ったり、酒を飲んで家族に乱暴する。それに耐えかねて、三月には母親が家出してしまい、いまだに行方がわからない。舟越は工場へ通いながら妹や弟の面倒も見ていたが、最近では父親が借金した多数のサラ金業者が、毎日アパートを訪れてきていた……。  夕子は、送致書類に記載されている「犯罪事実」を、まず舟越に読み聞かせた。 「被疑者は、昭和五十八年四月十四日午後三時|頃《ごろ》、東京都港区元麻布×番、ジュエリー・光本の前の路上において——」  警察での舟越の供述調書などを総合すると、事件当日、彼は工場でその月分の給料を前借りして早退し、サラ金業者三軒を訪ね、父親の借金の一部を返済して回っていた。毎日夕方になると、数人の業者がアパートへ押しかけて、大声で怒鳴ったり、荒っぽくドアを叩《たた》いたりするので、妹や弟が怯《おび》えきっていたからである。事件は、彼が元麻布のサラ金の事務所を出た数分後に発生していた。 「——店内にあるショウケースに目を止め、宝石や現金を盗もうと思い立ち中へ入った。店番をしていた光本善次郎七十六歳の頭部を、そこにあった一輪差しで殴打《おうだ》して昏倒《こんとう》させた上、ケースの中にあった宝石十三点と、小型金庫から現金八十万円を奪って逃走しようとした。店を出た直後に、来合わせた客、宮内華江四十七歳とぶつかったため、同女を突き倒し、近くに駐《と》めておいたモーターバイクに乗って逃走したものである。——送致書類にはこんなふうに書いてあるんだけどね。今読んだ事実に、まちがいありませんか」  例のゆっくりとした、とぼけたような響きさえ感じられる夕子の声は、被疑者の気持を奇妙にくつろがせる効果も持っていた。  舟越は最初だけ、女性検事の夕子を驚いたように眺《なが》めていたが、「犯罪事実」に耳を傾け、質問されると、身体《からだ》に似合わぬか細い声で答えた。 「大体、まちがいないですけど」 「大体、というと?」 「その……それだと、店番のお爺《じい》さんをいきなり殴ったみたいだけど、そういうわけじゃありません。ぼくが最初に見た時には、店の中には誰もいなかったんです。だから、今なら、と思って……でも、金と宝石をポケットにねじこんでいた最中に、奥からお爺さんが出てきて、泥棒《どろぼう》と叫びながら、ぼくの前に立ち塞《ふさ》がった。ぼくは逃げ道がなくなって、それでつい夢中で、そばにあった花瓶《かびん》を振りあげてしまったんです」  だんだん必死の口調になり、額に汗を浮かべて抗弁した。 「なるほど。それが本当なら、少々事情がちがってくるわけだけど」  舟越の供述通りであれば、彼は初めから強盗の目的でジュエリーへ押し入ったのではなく、金品を窃盗していた最中に見咎《みとが》められ、「其《その》取還を拒《ふせ》ぎ又は逮捕を免《まぬか》れ」るために暴力をふるったということになる。これは刑法二百三十八条に記されている「事後強盗」と呼ばれるケースに当り、罪名は同じ強盗傷人にはちがいないが、「事後」の分だけ情状|酌量《しやくりよう》されていいはずだった。 「女の人を突き倒すつもりもなかったんです……」 「ぶつかった拍子に相手が倒れたということ?」  舟越は強く頷《うなず》いた。 「奪った宝石と現金は、どうしたの?」 「金は、あくる日またサラ金へ返しました。宝石はアパートに隠しておいたんですけど……」  彼の逮捕後、宝石はそのまま警察に押収されていた。 「——犯罪事実で、ほかに何かちがっている点とか、いいたいことはありませんか」 「いえ……」 「あなたは、西品川にある機械部品を造る工場で働いていたそうね」 「はい」 「住居は大井町のアパート。そこから工場へは、毎日バイクで通ってたの?」 「はい」 「バイクは通勤用に買ったわけかしら」 「そうです、先月友だちから古いのを譲ってもらったばかり……」 「家族は?」 「父と、母と……いや、母は三月までいたけど、今はいなくて、あとは高一の妹と中二の弟……」 「お父さんもたまにしか家へ帰ってこないということね」 「はあ」 「だから日頃は、工場から帰ったあなたが、弟や妹たちの食事を拵《こしら》えていたわけね」 「はあ……」  頷くのと同時に、彼は肩を落として深い溜息《ためいき》をついた。自分が捕まってしまったあとの家庭の状態を心配している顔だった。  夕子は少しの間、改めて被疑者を観察した。彼の容貌《ようぼう》や体格は、目撃者の宮内華江が事件直後に証言したという内容と、やはりどこといって矛盾していなかった。目撃証言がそれだけ正確だったといえるだろう。その時華江は、凶暴で酷薄な印象を犯人から受けたとのべた。実際また、染めたような茶色の縮れ髪にジーンズのジャンパー、バイクで走り去った若者のイメージは、おのずと不良や暴走族を連想させる。それが捜査側に、ある程度の先入観を与えたとも考えられる。  が、実際に被疑者を目の前にしてみると、外観は確かに同じ特徴を備えていながら、中身はむしろおとなしくて気の弱い青年のように思われた。うすい眉《まゆ》の下にくぼんだ目も、すっかり沈みきっている。 「あなた、その茶色いチリチリ髪は、染めてパーマでもかけてるの」  舟越は一度目をむいてから、首を横に振った。 「いえ、生まれつきこんな色だし、天然パーマなんです」 「じゃあ、せめてもう少し短く切ったほうがいいわね」  夕子は、それでひとまず彼を帰らせることにした。最初に被疑者を検事の取調室へ呼んだ時には、「犯罪事実」を読み聞かせて、それに対する本人の弁解を聞くのが決まりである。それと送致書の内容とを検討した上で、被疑者の身柄を釈放するか、裁判所へ勾留《こうりゆう》請求を出すか、検事は二十四時間以内に決定しなければならない。勾留許可がおりれば、つぎの十日以内に、起訴するかどうかの処分決定を迫られることになる。  舟越の場合には、まず問題なく、勾留請求を出さなければならないだろう。身柄は、裏付け捜査や余罪追及のために、まだ当分、代用監獄と呼ばれる署の留置場に置かれるはずだった。  押送人が再び彼に手錠をはめた。  促されて、歩き出す前に、彼は意を決したような顔で夕子を振り向いた。 「あのう、検事さん……」 「なに?」 「大沢津和子という女の人が殺された事件で……警察ではまだぼくを疑っているんでしょうか」 「余罪として調べている段階ですね」  夕子はサラリと答えた。目下のところは、彼は「強盗傷人」の容疑だけで送検されているが、当然警察では大沢津和子殺害事件に関しても、彼を追及しているはずである。その容疑で彼が再逮捕され、送検されれば、その時点で検事が取調べを開始することになる。  が、被疑者によっては、警察では否認しても、検事には案外素直に喋《しやべ》る場合もあるので、夕子は内心緊張して舟越の顔を見守った。  その顔が、急に泣き出しそうに歪《ゆが》んだ。 「ぼくは、殺したりしません。絶対に……絶対やってない」 「あの事件が起きた時は、あなたはどこにいたの」 「工場がいつも五時半ごろ終って、家の近所で夕飯の買物をしてから帰るんです。だから、家へ着いたのが六時すぎで、それからまた、蒲田《かまた》までひとっ走りしてきました。友だちに金を借りてたもんで、返しに行ったんですが、あいにく留守で……」  再びアパートへ帰り着いたのが七時前後という。さんざん警察で訊《き》かれたらしく、この点は淀《よど》みなく答えた。警察では今、彼のアリバイの真偽を調べているはずだった。  舟越が退室すると、夕子は桜木事務官に目を向けた。 「宮内華江さん宅に掛ってきた脅迫電話は、確かテープに取ってあるんだったわね」 「二回目のは取ってあるそうです」  桜木も警察からの送致書類には全部目を通している。 「ちょっと聞いた感じでは、舟越の声と似ているところもあるようですが、これから声紋検査を行うということです。最初のやつは、録音してないわけですけど、ひどい掠《かす》れ声で、こちらは問題なく舟越とは別人だろうと、宮内華江が否定しているそうです」  夕子がまだ黙ったまま、大きな眸《め》を桜木の顔に注いでいるので、彼はなんとなく、母親から問題を出されているような気分になった。 「ぼくはその、どっちかといえば、舟越は殺人事件とは無関係みたいな気がするんですけど。発作的に強盗を働いたものの、人殺しまでやりそうな男とは思えないんですがねぇ」  夕子は両手をあげて伸びをしながら、日比谷《ひびや》公園の北側に当る道路を見下ろした。毎日朝から暗くなるまで、椅子《いす》に掛けて取調べばかりやっているから、時々体操でもしないと身体がおかしくなりそうだ。取調室では検事が窓を背にして掛けているので、ポカポカ陽《ひ》の照る日などは、眠くなってきて困る。横の窓からは、新芽をふいている街路樹の一部が見えた。 「脅迫電話を掛けた主と、大沢津和子を殺した犯人とは、別人ではないかしらねぇ。犯人が津和子を華江とまちがえて襲ったと仮定してもね」 「どうしてですか」 「だって、脅した上で殺したりしたら、犯人は宝石店荒しと同一人物だと、最初からばらしているようなものですもの」  同じ日の夕刻、夕子は参考人として、宮内華江を地検に呼んだ。舟越が今日の午後に送致されてくることは、昨日からわかっていたので、華江にも昨日のうちに連絡して、役所まで出頭してくれるよう依頼しておいた。ジュエリー・光本の老主人、光本善次郎は、頭の傷は順調に回復しているものの、まだ事件当時の記憶があいまいで、証人としては頼りにならない。とすれば、華江は依然として、唯一《ゆいいつ》の目撃者なのだった。  係官に案内されて入ってきた華江は、デスクとロッカーがあるだけの殺風景な取調室と、いちばん大きなデスクの前に掛けている夕子の姿などを、しばらくは物珍しそうに眺め回していた。先刻の舟越にしても、初めてここを訪れる者は、多かれ少かれそんな態度を示すものだが、とりわけ華江は、まだ女らしい艶《つや》を帯びた切れ長の目を、好奇心で輝かせているようにさえ見えた。 「お怪我《けが》は如何《いかが》ですか」  華江が前の椅子に掛けると、夕子は愛想よく尋ねた。ジュエリーの前で犯人とぶつかって倒れたさい、ガラスの破片で切ったという小指の付け根に、華江は幅の広いテープを貼《は》っていた。 「お蔭様《かげさま》で、もうほとんどよくなりましたわ」  華江もにこやかに答える。 「ご災難でしたね。でも、あなたの証言が、警察では有力な手掛りになったようですよ」  それから夕子は、華江が事件に遭遇したさいの状況を、順を追って尋ねた。勿論《もちろん》警察から詳しく聞いていたし、送致書類にも記載されていたが、改めて本人の口から直接喋らせる必要があった。  ここでも華江は、落着いた態度で要領よく説明した。 「舟越正一は、あなたを突き倒した覚えはないといっているんですが、あなたはどう思われますか」 「そうねぇ……私は突きとばされたような感じがしましたけど……ぶつかった途端に、向うも無意識にそんなふうにしてたんじゃないですかしら」 「なるほど。——ところで、あなたはジュエリーの事件の直後、犯人の齢恰好《としかつこう》、人相特徴などを、しっかり憶《おぼ》えていて、捜査員に伝えていますね。逮捕された舟越を見て、やはりあなたの記憶通りでしたか」  形よく描かれた華江の眉が、徐々に八の字に近づいて、なぜか陰鬱《いんうつ》な影がその顔にさした。彼女は無意識のように、右手の指で耳朶《みみたぶ》を引っぱっている。 「ええ……やっぱり、あの人だったと、今では納得しています。本人も自供しているそうですし、まちがいないと思いますわ」  慎重にことばを選ぶように、これまでよりゆっくりと答えた。 「舟越が逮捕された直後、元麻布署ではあなたを呼んで、別室からガラス越しに舟越を見せ、犯人かどうか確認してもらいましたね。その時には、どちらともいえないと、あなたは首を捻《ひね》っていらしたそうですけど……?」 「そうですわ、あの時には……私もドキドキして冷静に観察できなかったもんですから。なにしろあんな経験ははじめてでしたし」 「実際の事件にぶつかった時以上にですか」  え? と華江が一瞬目顔で問い返すと、夕子は微笑《ほほえ》みながら、例のおっとりした声でいい添えた。 「いえいえ、人間の心理って、ほんとに複雑微妙なところがありますものねぇ。——でも、日にちがたつうちに、やっぱりあの男にまちがいないと、納得なさったわけですね?」 「そういうことです」  華江はかすかに不機嫌《ふきげん》な様子になっていた。 「ジュエリーの事件のあとでは、あなたのところへ投書や電話もずいぶんあったそうですね。二回の脅迫電話以外は、賞賛や激励が寄せられていると伺っていますが、この頃《ごろ》でも掛ってきます?」 「ええ。ひと頃はなりをひそめていたんですけど、津和子さんの事件と、舟越が逮捕されたことがテレビや新聞に出てからはまた……」 「それは、どんな電話? いわばあなたの協力のお蔭で、犯人逮捕にこぎつけたわけだから、やはり好意的な内容でしょうね」 「いいえ、それがそうでもないんです。ほんとに、世間ってわかりませんわ……」  華江は厭《いと》わしげに肩をすくめた。    6  元麻布署の刑事が予測したように、ジュエリー・光本の事件から二日もたつと、華江の家の電話は急速になりをひそめた。もともと見ず知らずの者が、一時的な感情に駆られて、無責任な電話を掛けてきたにすぎないのだろう。  ところが、津和子の事件が十六日土曜日夜のテレビで報道され、日曜の朝刊に載ってからは、またも電話が騒がしくなった。  日曜日の午前九時頃、華江が夫と二人で朝食の最中にベルが鳴り響き、受話器を取ると、若い女のヒステリックな声が耳に突き刺さった。 「あなたが宮内華江さんですか?——昨夜の事件のこと、どう思ってらっしゃるの」 「……」 「お隣の大沢津和子さんは、ほんとにお気の毒だわ。あなたの洋服を借りたばっかりに、身替りになって殺されたんですもの。あなたがどの程度責任を感じてらっしゃるのかと思って——」  嫌《いや》がらせだとわかると、華江は素早く受話器を戻《もど》した。  日曜日中に華江が出た限りで三回、同様の電話が掛った。女ばかりで、みんな津和子に同情し、彼女が殺されたのは華江の責任だという論法だった。  どうせ自分たちも、他人《ひと》から洋服を借りてばかりいるから、身につまされてるんだわ。  華江は胸の中で皮肉をいい返した。  舟越が逮捕された月曜日の午後から、電話の内容はまたちがってきた。  月曜の夜には、中年の陰気な男の声で掛ってきた。 「さっき夕刊を読んだ者ですがね、あの犯人の青年は非常に可哀相《かわいそう》だね。——いや、うちの近所にもあれに似たケースがありましてね。親がサラ金で借金したあげくに蒸発しちまって、残された子供が責めたてられているんですよ……」  こちらの知ったことかと、いい返してやりたいところをこらえていると、 「こんなケースは、まったく子供が被害者なんですよ。あの舟越という青年だってね、ぼくは他人事《ひとごと》とは思えないね。あの子があんたのせいで逮捕されたあと、残された妹や弟はどうやって生きていくと思いますか……」  男の口調がしだいに異様な怨念《おんねん》を帯びて聞こえ、華江は気味が悪くなって、電話のフックを指で押さえた。サラ金で借金して蒸発した親というのは、自分のことではないのだろうか。  それというのも、マスコミが舟越の家庭事情などを詳しく伝え、エスカレートの一途を辿《たど》るサラ金悲劇みたいに報道したのがいけないのだ。身につまされる者はいよいよ大勢いるに決まっている。そうでなくても、世間の感情なんて、秋の空より変りやすいのだから。  例の隣人訴訟にしても、最初は幼児を隣人に預けておいて、事故が起こると隣人を訴えた原告に非難や侮辱が殺到し、たまりかねた原告が訴訟を取り下げてしまうと、今度は被告が責められたり脅されたり、信じがたいばかりの変り方だったではないか。  華江も、ジュエリー・光本の事件の直後には、見知らぬ人から感謝されたり励まされたりしていたのに、津和子の事件と舟越の逮捕以後は、一転して嫌がらせばかりだった。 「あの舟越という犯人は、根っからの悪人ではないわね。写真の人相を見ただけでわかるのよ」  決めつけるようにいってくる女もあった。 「あなたの隣の主婦を殺したのだって、舟越の犯行ではないと思いますよ。彼はアリバイを主張してるんでしょ。そのうちシロがはっきりするに決まってるわ」 「でも、それじゃあ参考までに伺いますけど——」  華江は精一杯冷やかに問い返してみた。 「誰《だれ》が津和子さんを殺したとおっしゃるの」 「そんなこと、あたしにわかるもんですか。とにかくあなたの出しゃばりのために、罪のない人まで殺されたんだわ。あなたも精々気をつけることね」  今度は向うから電話を切られた。  どうやら警察や世間が、津和子の殺された事件を、必ずしも舟越の犯行とばかり断定していないような印象が、華江の心になんともいえない恐怖めいた衝撃を投げかけている。津和子を殺してしまったのは、本当に計算外の出来事ではあったが、あのあとでは、この殺人は問題なく宝石店荒しの犯人の仕業《しわざ》と見做《みな》されるだろうと思った。目撃者の華江を殺すつもりで庭へ忍びこんだ犯人が、同じ服を着ていた津和子を襲ってしまった誤殺事件だと、誰もが考えるだろうと信じていたのに……。  もっとも、いずれ捕まった犯人に、津和子殺しの事件当時、完璧《かんぺき》なアリバイが証明されてしまえば、これは厄介《やつかい》なことになる。  華江にとっては幸いなことに、十六日夕方の舟越のアリバイは、釈然としないらしい。蒲田のアパートに住んでいる友だちを訪ねたと申し立てているそうだが、相手が不在だったのだ。  しかし、裏付け捜査を続行している警察が、たまたま彼のアリバイを見つけてしまったらどうなるだろうか。たとえば、蒲田のアパートの別の住人が、確かに舟越が六時半頃やってきたことを思い出すとか。  もし万一、舟越のアリバイが成立した場合、警察では津和子の事件をどのように解釈するだろう……?  そう考えると、華江は腋《わき》の下に冷たい汗が滲《にじ》み出し、いても立ってもいられないような焦燥に駆られた。  今のうちに何か、打つべき手はないものか?  月曜も火曜も、華江は家の中に引きこもっていた。外出好きの彼女には、いたって珍しいことである。電話は、ジュエリーの事件の直後ほどには多くなかったが、出ればほとんどが不愉快な内容だった。が、それによって何か情報が得られそうな気もして、聞かずにはいられない。  十九日火曜日の午後になると、その電話はほとんど音をたてなくなった。今回も、世間は早くも事件を忘れかけているのかもしれない。新しい事件は毎日つぎつぎと発生し、その当事者たちの許《もと》へ、また無責任な匿名《とくめい》の投書や電話が舞いこんでいるのだろう……。  十九日の午後遅く、華江に掛ってきた最後の電話は、東京地検からで、明日参考人として出頭してもらいたいというものだった。検察事務官の桜木と名乗る若い男が、意外に丁重な口調でそれを頼んだ。  二十日は昼すぎから霧雨が降り出し、肌寒《はだざむ》い午後になった。  華江は指定された午後四時に、霞《かすみ》が関《せき》の東京地検を訪ね、検事の調べは小一時間で終った。  今日も夫は取引先の接待で夕飯は要らないといっていたし、華江も久しぶりの外出だったので、帰りには銀座のブティックでも覗《のぞ》いて、気晴らしをしたいと思っていた。  が、運転を始めると、知らず知らず、自宅の方向へ走らせていた。今会ってきた霞夕子検事の印象と、彼女と交した会話を、いく度となく頭の中で反芻《はんすう》し、そのことに意識を占領されていた。  あの女性検事は、津和子の死体が発見された時の現場へも姿を見せていた。小柄《こがら》だし、目立つほどの美人でもない。よく動く大きな眸《め》と、下膨れのお多福顔は、どこか愛敬《あいきよう》のある感じではあったが。喋《しやべ》り方は奇妙に悠長《ゆうちよう》で、とぼけているみたいに聞こえることもあって、別にとりわけシャープな印象というのでもなかったのだが……。  しかし——彼女はなぜことさらあんな質問をしたのだろう? 舟越が捕まって、警察で首実検をさせられた時には、ドキドキして、冷静に観察できなかったと華江がいったのに対して、「実際の事件にぶつかった時以上にですか」と、夕子は尋ねた。ジュエリーで事件に遇《あ》ったさいには犯人の人相特徴をしっかり見極められたのに、犯人が逮捕された時にはなぜうろたえたのかと訊《き》きたかったのだろう。  それにしても、彼女はどうしてそんなところに拘泥《こだわ》ったのか……?  考えごとで頭がいっぱいになっていた華江は、交差点で危うく追突しそうになり、急ブレーキを踏んだ途端にスリップして、間一髪で別の車に接触するところだった。  車の運転も何日ぶりかなのだ。ジュエリーの事件以後は、津和子を殺してしまったあと、アリバイを作るためにフルスピードで横浜までとばした。それ以来、まだ今日まで、ハンドルを握っていなかった。  今度は自宅に着くまで、運転に神経を集中した。そのために華江は、さっきまで気にかけていた大事なことを、し忘れたまま、車を降りて、ガレージを出た。  五時半を回ったばかりだったが、雨の日の早い夕闇《ゆうやみ》が、辺りを薄墨のように包んでいた。  玄関の鍵《かぎ》を開ける前に、習慣的に郵便受けを覗いた。白い封筒が一枚、函《はこ》の底に落ちていた。毎日昼すぎに配達される郵便物は、出掛ける前に家に持って入っていたから、そのあとで届いたものにちがいなかった。  手にとると、封筒の上に何も宛名《あてな》が書いてないことがわかった。白紙の封筒は、しっかりと糊付《のりづ》けしてある。誰かがここへ放《ほう》りこんでいったものとしか思えない。  華江は胸に不快な圧迫感を覚えた。玄関を開け、中へ入って、内側から急いで錠とチェーンを掛けた。つぎつぎに電灯のスイッチをひねり、家の中を明るくしてから、封を切った。  四つに畳んだ便箋《びんせん》が一枚出てきた。 〈大沢津和子はあなたのせいで殺されたのです。あなたは責任があります。同封のカミソリで自殺しなさい〉  ボールペンの幼稚な文字が記されていた。封筒の底では、両刃のカミソリが一枚、冷んやりとした光沢を放っていた。    7 「宮内華江という女性は、なかなかしっかりしていて、頭も良さそうに見えるわね」  霞夕子が、自分の車を運転しながら、助手席に掛けている桜木事務官に話しかけた。麻布の暗闇坂と呼ばれる界隈《かいわい》で、右手の石垣《いしがき》の上から樹木が黒々と生い茂って、呼び名の通り昼間でもどことなくほの暗い坂道である。今は午後九時をすぎて、小雨が降り続き、周囲の建物もひっそりとした夜陰に沈んでいた。  二人は六時すぎに地検を出て、被疑者が勾留《こうりゆう》されている警察署を二箇所回った。刑事部の検事は、被疑者の身柄を拘束するいわゆる「身柄事件」を、通常十二、三件は抱えているので、昼間検察庁に呼んで調べきれない分は、夜、検事のほうから拘置所や警察へ出向いていくのである。  そのあと夕子は、元麻布署へ寄って、ジュエリーの強盗傷人事件の裏付け捜査と、大沢津和子殺害事件のその後の捜査経過などを聞いた。  霞夕子は、動き回る検事、とでもいえるかもしれない。検事によっては、警察との連絡はもっぱら向うから来てもらったり、ほとんど電話ですませる人もいるが、夕子は地検での取調べを夕方六時|頃《ごろ》で打ち切り、あとは大抵毎日外を回っている。一方面の管内で殺人事件などが発生した場合、それが最初から捜査本部設置が予測されるほどの重大事件なら、本部係検事が現場に臨場するが、そうでなければ、主任の夕子が駆けつける。拘置所や代用監獄へ出掛ける途中で、事件の所轄《しよかつ》署へ立ち寄り、捜査会議に加わることもしばしばあった。勿論《もちろん》その都度、桜木事務官もついて行かなければならない。  桜木は、検事があまりちょくちょく顔を出しては、現場の捜査担当者にうるさがられはしないかと懸念《けねん》しているが、夕子はまるで頓着《とんちやく》しているふうはなかった。  事件の現場へ臨場するさいには、地検の車を使い、所轄署に寄って案内してもらうのが常だった。ほかの時には、そのまま帰宅できるように、夕子は自分のパサートを運転している。 「ジュエリーの事件の時、宮内華江の行動は実に落着いていて適切だったし、犯人のことも細かく憶《おぼ》えていて、捜査員に伝えているわ」 「彼女ののべた人相特徴は、舟越とぴったり一致してましたからね」 「それだけ正確な目撃者だった彼女が、舟越が逮捕された時、犯人はこの男にまちがいないと、どうしてはっきり証言しなかったのかしらねぇ。私は残念ながら、その場には立会えなかったわけだけど——」  夕子の口調は真底残念そうに聞こえた。 「元麻布署の刑事課長の話ぶりから察するに、舟越に任意同行を求めて、そのあとすぐ、彼の顔を検《あらた》めてもらうために宮内華江を署に呼んできた時、彼女は表面的にはよろこんで協力してくれたものの、どことなく気の進まない様子だった。そして、別室のガラス越しに舟越を見させたが、あの時の男かどうか、答えはもうひとつ歯切れが悪かったらしいわ。その後舟越が自供したので、逮捕にこぎつけたわけだけど。でも、なぜかしらねぇ。あの女《ひと》の性格からすれば、もっと張り切って証言してもいいはずだと、私は思うんだけど」 「それは……今日、彼女自身も話していたように……」  桜木も考えこみながら答えた。 「いざ実際の容疑者を見せられると、自信がなくなったんじゃないでしょうか。それと、思いがけない投書や電話が舞いこんで、気持が動揺してたのかもしれませんし」 「投書や電話の大部分は、彼女を賞《ほ》めたり励ましたりしていたのよ」 「でも、脅迫的なものも二回あったでしょう。彼女は犯人の仕返しが怖かったのかもしれませんね」 「だけど、それなら、すでに隣の主婦が殺されていたんだから。犯人が華江さんとまちがえて彼女を襲ったというのが、おおかたの見方だったわ。華江さんとしては、一刻も早く犯人が逮捕されなければ、それこそ怖くてたまらないはずじゃないのかしら」 「じゃあ、どうして彼女は証言を渋ったわけでしょうか」  桜木は手取り早く夕子の意見を聞くことにした。坂を上りきり、車を右折させてから、夕子は答えた。 「私はねぇ、もしかしたら華江さんは、犯人の逮捕を心の底では望んでいなかったのじゃないかという気がするの」 「どうしてです?」 「そう……どうしてかと考え詰めていくと、ジュエリー・光本の事件の犯人が逮捕されれば、その男が津和子さんを殺したかどうかもはっきりするでしょ。つまり、その男が津和子さん殺しとは無関係だということが証明される可能性だってあるわけだから……」  桜木が夕子の横顔を見守っているうちに、彼女は車を左へ寄せて停《と》めた。数メートル先にある白い石の門と、その後ろの二階建は、華江の家にちがいなかった。 「寄っていくんですか」  夕子は軽く笑っただけで、車を降りた。  桜木はそっと腕時計を覗いた。このぶんでは、今夜も帰りは十時をすぎるだろう。夕子と組んで仕事をするようになって約ふた月、めったに女の子とデートもできなくなってしまった。夕子にしても、毎日こんなに遅くまで働いて、家庭のほうはどうなっているのだろう?  桜木は最初のうち、夕子は独身だと勝手に思いこんでいたが、最近になって彼女が結婚していることをほかの検察事務官に聞いた。が、彼女の夫は検事とか弁護士とかの法曹界《ほうそうかい》の人ではなく、全然無関係な職業らしいという話だった。  夕子の夫はどんな男だろうと、桜木は時々想像をめぐらせてみるが、それらしいイメージはさっぱり浮かんでこないのだった。  雨の降りしきる路上に佇《たたず》んで、彼女はしばらく建物のシルエットを見上げていた。門柱の上には四角いガラス張りの外灯が点《とも》り、その光が横にあるガレージの前まで降り注いでいる。  ガレージには、茶と薄茶のツートンカラーの、国産では高級車に属する中型車が、前向きに納まっていた。  光のさしこんでいる運転席の辺りを眺《なが》めていた夕子は、ダッシュボードの下に付いている屑籠《くずかご》の中へ、ふと視線を吸い寄せられた。二つに破った封筒が放りこまれている。よく見ればブルーの和紙を使った趣《おもむき》のあるもので、たとえばダイレクトメールみたいに、無雑作に捨ててしまうには惜しいような——。  一度|捩《ねじ》ってから屑籠に入れたのかもしれないが、時間がたつうちにそれが緩んでひろがり、差出人の男名がこちらから読みとれた。  夕子は運転席のドアを引いてみたが、ロックされていた。幸い後部座席のドアは開いた。そこから手を入れて、運転席のロックを外し、ドアを開けて、手紙をつまみ出した。  門灯にかざして、目を走らせた。 〈こちらへ来て、早くも十日が過ぎました。……華江さんの家の付近を思い出して、無性に東京が懐《なつか》しく……こんな静かな町で華江さんと二人で暮せたら……〉  差出人は石川保。住所は金沢市——。  夕子はまた封筒を軽く捩って、元通りに屑籠へ捨て、運転席のドアをロックした。呆《あき》れたように見守っている桜木を目顔で促して、宮内家の玄関へ歩み寄った。 「四月十二日の日付になってたから、彼女はジュエリーの事件の日くらいに受取ったはずね」 「……?」 「あれからは彼女も大忙しで、きっとすっかり処分するのを忘れてたんでしょうね」  夕子がチャイムを鳴らすと、しばらくして、内部に足音が聞こえた。 「あなた?」 「いえ、地検の霞ですけど」  また少し待たされてから、錠とチェーンを外して、華江がドアを開けた。 「失礼しました。主人かと思ってしまって……」 「まだお帰りじゃないんですね」 「ええ、毎晩何かしらお付合いがあるみたいで」 「ガレージにあるのは、あなた専用のお車?」 「ええ、まあ。主人は会社の車が送り迎えしてくれますし、それに、自分で運転をいたしませんから」 「ああ、なるほど」  華江はそつなく応答しながらも、目を瞠《みは》り、小鼻を膨らませるような表情で、玄関に入った夕子と桜木を見較《みくら》べている。突然二人が現われたことに、意表を衝《つ》かれたのにちがいなかった。 「ご主人が毎晩遅いのでは、お一人でちょっと寂しいですわね」 「ええ、でも……」  華江は睫毛《まつげ》を伏せて、右の耳朶《みみたぶ》に指を当てた。 「以前には、津和子さんがよく遊びに来てくださったものですけど」 「彼女はいつも、庭伝いにお宅へやってきたそうですね」 「ええ」 「庭からいきなり入ってこられてもかまわないような、そんなに打ちとけた間柄だったわけね」 「……?」  かすかな怯《おび》えに似た影が、華江の眸をよぎった。 「あの、検事さん、今夜は何か……?」 「いえ、元麻布署の帰りにちょうど前を通りかかったものですから。大体世間の人は、事件の捜査をするのは警察だけだと思っているみたいですけど、殺人などの重要事件では、検事も現場へ駆けつけなければならないんですよ。その後も警察と密接な連絡をとりあって、適切な捜査が行われるように、時には指導や助言をする必要がありますの。刑事さんたちは、『現場百回』というそうですけど、検事だってね、何遍も現場へ足を運べば、思いがけない拾い物もあるものですわ」  夕子は大きな目で、どこか愉快そうに桜木を見やった。 「あら、それでしたら……どうぞお上りになりませんか」 「いえいえ、今日はもう遅いですから。——ところで、その後も投書や電話は来ていますか」 「はい……」  華江はわずかの間、素早く思案したように見えた。彼女が精神集中すると、右手で耳朶をつまむ癖のあることを、夕子は今日の午後地検で気がついていた。 「実は、さっき帰ってきましたら、郵便受けに封筒が投げこまれていたんです。それがひどい嫌《いや》がらせで……」  彼女は夕子たちを待たせて奥へひっこみ、白紙の封筒を携えて戻《もど》ってきた。  夕子が受取って、中の手紙を読み、カミソリを取り出した。 「これが入っていたわけですね」 「そうなんです。ほんとにひどいことを……私だって被害者の一人だっていうのに」 「でも、これは人真似《ひとまね》ですね。例の隣人訴訟で、カミソリを同封した手紙が二通もあったと、新聞に出ていましたから、たぶん、その真似をしたイタズラだと思いますけど……でも、一応大沢津和子さんの友人とか近しい人間を調べてみる必要はあるかもしれませんね」 「友人といえば……」  華江はまた、右手を耳のほうへ持っていった。 「舟越の友だちだという男から、今しがた電話が掛ってきたばかりですの」 「何といって?」 「今度こそ、きさまに復讐《ふくしゆう》してやるって……ドスのきいた声で、とても怖かったわ」 「それは、テープに取ってありますか」 「あ……いえ……テープレコーダーはまだ付けたままになってますけど、私がスイッチを入れるのをうっかりして……」  華江は本当にしまったという顔で唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「今までに掛ってきた二回の脅迫電話とは、声が似てましたか」 「さあ、そういわれても……だけど、ほんとに舟越の友だちか身内みたいな、真に迫った口調でしたわ。私のためにあの男が捕まったと思い詰めて、必ず仕返ししてやるというような。もしかしたら、津和子さんも……」  途中で声を呑《の》むと、華江は気味悪そうに、両手で自分の二の腕を締めつけた。  夕子はいっとき華江の様子を見守ってから、ゆっくり口を開いた。 「津和子さんが殺された当時の舟越のアリバイは、成立しそうな状況ですね。彼は蒲田の友だちのアパートを訪ねた往《い》き帰りに、知合いや近所の人に姿を見られていて、それを繋《つな》ぎ合わせていくと、ここまで来て津和子さんを襲う暇はなかったという結論になってくるのです」 「……」 「津和子さん殺しの犯人は、舟越にこだわらず、別人と考えるべきじゃないかしら。舟越の友人関係をつぶさに洗うよう、さっそく元麻布署に指示しておきましょう」 「検事さんも、やっぱり舟越の友だちの犯行だとお考えになります? 舟越の安全を守るために私の口を封じようとして、まちがって津和子さんを……」 「必ずしも、友人とは限らないかもしれませんね」  華江が訝《いぶか》るように、せわしなく瞬《まばた》きした。 「なんというか、最近は不可解な暴力犯罪の発生しやすい風潮なんですね。たとえば、舟越と似たような境遇の男とか、何かムシャクシャした人間が、鬱憤《うつぷん》晴らしにあなたに嫌がらせするつもりでお宅の庭へ忍びこんだ。そこへ津和子さんがやってきたために、結果的に彼女を殺してしまった。そういうケースだって、十分に想像できますわね。その男か、あるいはまた別の人間が、今後もあなたを狙《ねら》わないとも限りません」 「舟越が逮捕されても、私は安心できないんですか」 「事件のほとぼりがすっかり冷めるまでは、油断しないほうがいいですわね」 「油断しないって……どうすればいいんですか」 「夜の外出を控えるとか、戸締りにも気をつけて、つまり、ご自分でよく用心なさることでしょうね」 「わかりました。十分気をつけますわ」  華江は沈んだ表情で頷《うなず》いた。 「それじゃあ、私はこれで失礼しますわ。夜分に驚かせてごめんなさい」  桜木も華江に会釈《えしやく》して、ドアを開けた。夕子が身体《からだ》半分出かかった時、 「あの、検事さん……」  華江がせきこんだ声で呼びとめた。 「あの……警察で四六時中この家を警戒してくれるとか……そういうことはお願いできないものでしょうか」  夕子は戸外の暗闇《くらやみ》から、華江の顔へ視線を戻した。いちだんと悠長《ゆうちよう》な、のどかに響く声で答えた。 「そうですわねぇ、パトロールはふだんより少し頻繁《ひんぱん》にやっているようですけど、つきっきりで警備するまでのことは、無理じゃないですかしら。何しろ近頃《ちかごろ》はあちらも人手不足のようですから……」    8  三日後の午後八時半すぎ、夕子が桜木を伴って麹町《こうじまち》署へ出向いていた時、元麻布署の刑事課長から電話が入った。地検に電話して、夕子の行き先に当りをつけたものだろう。 「——はい、霞ですけど?」 「ああ、検事さん、宮内華江のご亭主《ていしゆ》からさっき連絡がありまして、華江が庭先でナイフを持った賊に襲われ、腕と太腿《ふともも》を切られたということです。ちょうどご亭主が帰ってきたところへ、庭先で悲鳴が聞こえ、出てみると賊は逃げたあとだったそうですが。救急車を呼んでから、本署へ報《し》らせてきたんです」 「それで、怪我《けが》は?」 「ええ、広尾の救急病院へ、捜査員を急行させました。腕と腿を合計十針縫ったそうですが、入院の必要はないと医者がいうので、家へ帰らせたところです。本人はかなり興奮しているそうですから、これから家で事情を聴くつもりです」 「そう。私もこちらがすんだら、さっそく南麻布へ回りますから」 「どうぞ、お願いします」と、刑事課長は丁重に答えた。夕子の声が弾《はず》んでいたのに較べ、彼のほうはどことなく辟易《へきえき》しているようでもあったが。  麹町署の代用監獄に勾留《こうりゆう》されている被疑者の取調べを途中で切りあげ、夕子は車を急がせたので、彼女らが南麻布の宮内宅へ着いた時は、九時二十分を回ったところだった。  右腕に包帯を巻かれた華江がリビングのソファの背に凭《もた》れ、刑事課長とほか二人の刑事が向かいあっていた。夫の宮内は席を外すようにいわれたのか、その場には見えなかった。  華江はそれまで、難に遇《あ》った時の状況を刑事たちに説明していたらしい。夕子は隅《すみ》の椅子《いす》に掛け、話を続けるように促した。 「——私が大声をあげて家の中へ逃げこもうとしたのと、主人がこの部屋へ入ってきたのとは同時だったんです。それで若い男は、私を追いかけるのをやめて、逃げていったんです。ほんとに危いところで、もしあと二、三分でも主人の帰りが遅かったら、どうなっていたやら。検事さんはこの間、自分で十分用心するようにとおっしゃいましたけど、ほんとにその通りだったんですわね」  警察はちっとも守ってくれないという皮肉をこめたつもりらしかった。 「主人は外まで賊を追いかけたんですけど、見失ってしまって……でも、戻ってきたら、生垣《いけがき》のそばにこれが捨ててあったそうです」  テーブルの上には、血に染まった、まだ新品らしい果物ナイフが置かれていた。 「西側の生垣のそばにこれが落ちていたということは、賊は表玄関からか、それとも生垣の隙間《すきま》から大沢さんの家の横を通って逃走したという公算が強くなるわけですね」  刑事課長が念を押した。 「ええ、暗かったので、はっきりとは見えなかったけど、とにかくそっちの方向へ逃げていったことは確かですわ」  一通り華江が話し終えたところで、刑事課長は問いかけるように夕子の顔を見た。夕子は黙って頷き返した。現場や警察署での捜査段階では、あくまで警察官を表に立てなければならない。  彼は組んでいた脚をほどいて、椅子に掛け直し、咳払《せきばら》いをした。 「奥さん、実はですね、この三日前から、本署の捜査員がほとんど終日お宅を見張っていたのですよ。ご主人が出勤される午前八時十五分頃から、夜はお宅の灯《あか》りが消える十一時頃まで。検事さんが、お宅を訪ねて奥さんに会ったあと、ぜひそういうふうにするようにと指示されたもんだからね」 「……」 「今夜その役目に当った捜査員の報告によれば、午後五時十五分に奥さんが近所の買物から帰られて以後、ご主人が帰宅された午後八時五分まで、ほかには誰《だれ》一人お宅に出入りした者はいない。勿論《もちろん》、表玄関にせよ、大沢さんの家から庭伝いにせよ、どこからも、ですな」 「でも……だって……検事さんは私には、警察ではつきっきりでこの家を見張るようなことはできないっておっしゃったじゃありませんか。警察は人手が足りないんだって……」  華江がどこまでも夕子に視線を据《す》えているので、夕子は気乗りしない表情で口を開いた。 「そうですわねぇ、たとえばどこかの家に、誰かが侵入する危険性があると考えられても、だからといって、警察が四六時中その家を見張っているってわけにはいきませんわね。だけど、誰も侵入しないということを確かめなければならないという場合には、またちょっと別ですわ」  刑事課長が丸い顔を前に突き出して、再び咳払いをした。 「奥さん、石川保という男をご存じですね。息子さんの同級生で、この春大学を卒業して製薬会社に就職し、現在は金沢支社に勤務しています。学生時代東京にいた間は、ちょくちょく奥さんを訪ねていったことを、彼はうちの捜査員に打ちあけましたよ。隣の主婦が厚かましく庭伝いに入ってきて困ると、奥さんが憤慨していたこともね」  華江の顔がふいに血の気を失い、その場の空気まで冷たくなったように感じられた。 「ついでに奥さん、あなたがさっき病院へ運ばれている間に、ご主人の同意を得て、この家の中を調べさしてもらったんですがね。お宅には、斧《おの》はないようだが、柄《え》の短い小型の鍬《くわ》が、台所の土間に置いてありましたね。さっそくルミノール反応の検査をしたところ、柄と刃の付け根、それと木の柄の欠けてくぼんだ部分などに、明らかな血液反応が認められましたよ。刃に付いた血痕《けつこん》はていねいに洗い流してあったようだが、繊維とか木などに染《し》みこんだ血はなかなかとれないものだ。その上ルミノール検査というのは、素人《しろうと》が想像しているより、遥《はる》かに鋭敏なものなんでね」  刑事課長がいったん口をつぐむと、室内はまるで耳を圧するほどの静寂に包まれた。高級住宅地の夜は森閑としている上に、この家はゆとりのある敷地の中に建てられていた。  華江は蒼《あお》ざめた顔を心持ち俯《うつむ》けて、身動《みじろ》ぎもせずにいた。やがて、身体中の力が抜けるような感じで、深く長い溜息《ためいき》をついた。 「私としたことが、なんて馬鹿《ばか》なことをしたんでしょう。別に、殺すほどの相手じゃなかったのに。たぶん、あんな電話が掛ってこなければ……」 「強盗犯人を装った脅迫電話のことか」と課長がまた尋ねた。 「今、津和子を殺せば、強盗犯人の仕業《しわざ》だと思われると考えたわけかね」 「無意識に、考えていたかもわかりませんけど……」 「三日前の電話はどうなんだ? 舟越の友だちが復讐してやるといってきたというのは……そんな電話が本当に掛ってきたのかね」 「いいえ」  華江は自分自身を嘲笑《あざわら》うように口を開けて、首を左右に振り動かした。 「ただ、検事さんと話してたら、ふっとそんな嘘《うそ》を思いついてしまったから……」 「また狙われたふりをすれば、第三者の犯人をでっち上げられると目論《もくろ》んだのだろう。結局あんたも、世間の投書や電話に惑わされていたわけだよ」 「でも、津和子さんを殺すつもりなんか、もともと全然なかったんですよ」  華江は虚《うつろ》な目をあげたが、その眸《め》が夕子の視線を捜し当てると、急に熱心に同意を求める眼差《まなざし》に変った。 「ほんとなんです。ただ私、一遍だけ、あの女を思いっきりひっぱたいてやりたかったのよ。ねぇ、誰にだって、そんな相手はいるものじゃないんですか」 「そうねぇ……いわれてみれば、思い当る節《ふし》もありますわね」  夕子のおっとりした声が、今は華江の気持を不思議に安らがせた。 「おそらく誰にでも、一人や二人くらいはね。たまたまそいつに一撃見舞うチャンスに恵まれるかどうかのちがいだけでね。それに、どんなに物事の手回しがよくっても、ひょいとしたはずみで何もかも失ってしまう人もいるものだわ。たぶんその逆もあるでしょうけど」  螺旋階段をおりる男    1  遺産相続の問題で相談に来ていた依頼人が辞去すると、六時二十分になりかけていた。今日はめずらしく、その後のアポイントメントはない。  栃之木寛《とちのぎひろし》弁護士は、必要な書類を折鞄《おりかばん》にしまい、ゆるめていたネクタイをしめ直して、デスクの前を離れた。弁護士の執務室には、窓を背にして彼の大きなデスクと革張りの肱掛《ひじか》け椅子《いす》が据《す》えられ、向かい側には応接セットが置かれている。その横には、隣の事務室や応接室に通じるドアがあるが、それとは反対側の、弁護士が椅子に掛けた位置からは左手の隅《すみ》に、もう一つドアがついていた。非常出口のためで、外には螺旋《らせん》階段が設けられている。今から十八年前、法律事務所を開業するために貸しビルを物色していた折、彼はそのドアが気に入って、すぐにここを決めたものだった。その理由は、彼自身にも必ずしも明らかではない。部屋はビルの二階だが、外壁には足場になるような出っぱりも随所にあって、非常口の必要性はさほどにも感じられなかったのだが——。  ともあれ、毎日帰る前にそのドアの施錠《せじよう》を確認することが、彼の長年の習慣だった。  事務室へ出ていくと、見習いの若い弁護士滝田と、客を送り出して席へ戻《もど》った女子事務員の阿部礼子が、顔をあげて彼を見守った。 「今日はもういいよ」  栃之木は二人に穏やかな声を掛けた。 「遅くなってすまなかったね。思いのほか話が長びいてしまったものだから。デートの約束に遅れたんじゃないの」  最後は礼子に揶揄《からか》うような笑顔を向けた。栃之木寛は今年五十三歳になり、艶々《つやつや》した丸顔と、やや贅肉《ぜいにく》のつきかけた恰幅《かつぷく》のいい体躯《たいく》をしている。近眼と老眼の混った鼈甲《べつこう》縁の眼鏡を掛けていて、そのレンズを通すと、実際以上に眸《ひとみ》が大きく見えるが、大抵の時、その目はなごやかに細められていた。 「そんなことありません」と、礼子ははにかむように笑った。 「滝田君は、今度の日曜から郷里《くに》へ帰るのだったね」 「はあ、父の加減があんまり好《よ》くないらしいので……勝手をいってすみませんが」 「いやいや、そんな時こそゆっくりそばにいてあげなさい。こっちのことは気にしなくていいから」 「ありがとうございます」  礼子が栃之木のコートを外してきて、彼の肩に着せかけた。 「今日はまっすぐお帰りになるのですか」 「ああ。明後日《あさつて》が家内の誕生日なんだがね。あいにくその日は夜の会合があるものだから、今日くらいから早く帰ってやらないと」 「おやさしいんですね。奥さまはお幸せですわ」  礼子は本心からいった。事実、彼女の頭の中には、理想の夫として、栃之木のイメージが描かれていた。 「そういえば、一昨日《おととい》の午後、新宿の通りで奥さまをお見かけしましたわ」 「へえ、何時|頃《ごろ》?」 「裁判書類を届けにいった帰りですから、四時半頃だったかしら」 「若い男性と並んで歩いてたんじゃないの」  栃之木がふざけるように訊《き》いたので、礼子もつられて笑った。 「そんなに若い人ではなかったと思いますわ。よく顔は見えませんでしたけど」 「たぶん、テニスクラブの人だろう。家内は下井草のテニスクラブのコーチをしているのでね。——女性も家にこもってばかりいないで、外へ出て好きなことをやったほうが、老《ふ》けこまないでいいんだよ」  礼子はなんとなくうれしくなって頷《うなず》き返した。どんな形にせよ、奥さまの話題が出ると、先生はいっそう上機嫌《じようきげん》になるみたい……。  栃之木は地下駐車場から黒のベンツを出した。暮れて間もない夜空に、新橋|界隈《かいわい》の多彩なライトが競うように輝いている。秋が深まるにつれて、灯火は冴《さ》えた光を放っていた。  車の溢《あふ》れる路上を、栃之木は落着いた速度で運転した。  七時すぎには、白金台《しろがねだい》の自宅の付近に着いた。  彼の住居は鉄筋の二階家で、しっとりとした生垣《いけがき》に囲われているが、前庭は狭くて、公道からわずかばかり退《さが》ったところに、玄関と車庫がついている。その車庫の前に、ライトをつけた中型車が駐《と》まっていて、今にも発進するところのようだ。妻の秋子が車の外に立って、運転席の男と話している後ろ姿が見えた。  栃之木の車が接近してきたので、運転者はこちらを向き、それで秋子も振り返った。夫のベンツを認めた彼女は、吃驚《びつくり》したように目を瞠《みは》った。 「やあ、先生、どうもすみません、すぐにどきますから」 「いや、いいんですよ」  栃之木が先に車外へ出たので、向うもあわてて降りてきた。パーソナルコンピュータのソフトウエア・メーカーを経営している吉井という四十すぎの男で、栃之木はその会社の顧問弁護士をつとめていた。 「今日は奥さんにコーチしていただいたもんですからね。ついでもあって、お宅までお送りしたんですよ」  吉井は下井草のテニスクラブの会員でもある。ごく小柄《こがら》で、どちらかといえば貧相なほうだが、眉《まゆ》の垂れた顔は人なつこい印象を与える。 「おや、それは申しわけなかったですね。上ってお茶でもいかがですか」 「いやいや、もう十分です。まだ寄るところもありますし」 「そうですか。残念ですなあ」 「仕事のことでちょっとご相談もありますので、改めて事務所へ伺いますから」 「どうぞ、お待ちしていますよ。——いや、家内が日頃お世話になって、ありがたく思っているんです。これはテニスが何よりの愉《たの》しみらしくってね。わたしからもよろしくお願いしますよ」 「いや、それはこちらの申すことで」  弁護士の丁重な挨拶《あいさつ》に、吉井は恐縮の体《てい》で、いく度も頭をさげながら運転席へ戻った。  彼の車が出て行く間、栃之木は秋子に寄り添い、妻の背に軽く手をそえるようにして見送っていた。  車が見えなくなると、栃之木はベンツを車庫に納めた。その間に秋子は家へ入り、夫の夕飯を調《ととの》え始めた。三十七歳の秋子は、栃之木とは十六歳も開きがある。二人とも再婚で、五年前に結ばれ、二人の間に生まれた四歳の娘みちるとの三人暮しである。とうに夕食を終っていたみちるは、二階の子供部屋でおとなしく遊んでいるようだ。  ダイニングキッチンの隣の和室で、栃之木は黙々と着替えを始めた。しばらくして、秋子には背を向けた恰好《かつこう》のまま、 「何時頃帰ってきたんだ?」と、尋ねた。 「今日のクラスは三時から五時まででしたから、そのあと吉井さんが送ってくださるとおっしゃって……」 「真直《まつす》ぐここへか」 「むろんですわ。ラッシュで少し時間がかかりましたけど」 「いくら混《こ》んでも、二時間もかかるわけじゃあるまい」 「さあ……何時頃だったかしら、うちへ着いたのは」  秋子は、現代的で彫りの深い小麦色の顔をうつむけて、テーブルの上に皿《さら》を並べている。 「着いてすぐ、吉井は帰ったのか」 「ええ……」 「嘘《うそ》をつけ」  こもった声で呟《つぶや》くなり、振り返った栃之木の顔は、ほんの数分前とは別人のように変っていた。厚いレンズの下で見開いた両眼が異様に拡大され、まるで何か巨大な爬虫《はちゆう》類の目のように見える。唇《くちびる》をへの字に開いて前歯をむき出し、そのへんの筋肉が引きつっている。頬《ほお》は赤紫に上気し始めて、|顳※[#需+頁]《こめかみ》の血管が浮き出していた。  彼は大股《おおまた》にテーブルの前へ来た。 「あいつをそこへ上げたんだろう?」  和室とは反対側にあるリビングのソファを指さした。秋子は蒼《あお》ざめて顔をこわばらせた。 「それはまあ……わざわざ送っていただいたんですから」 「それからどうした?」 「お茶をさしあげて……でも、吉井さんは五分くらいですぐ……」  栃之木はやにわに秋子の腕をつかみ、ソファのそばへ連れてきた。 「あいつはどこへすわった?」 「そこへ……」 「お前は?」 「こちら側ですわ」  秋子は向かいあった椅子を示した。 「嘘つけ。お前も横へ掛けたんだろう、あいつにくっついて」 「まさか、そんな……」  栃之木の目はいよいよ激しく見開かれ、病的な興奮に充血している。一方、秋子の顔には怯《おび》えがさし、絶望的な表情に歪《ゆが》んでいた。 「どんな話をした?」 「別に話っていうほど……いえ、あなたが早くお帰りになるのなら、待ってていただいてもよかったんですけど……」 「なにぃ? 出鱈目《でたらめ》をいうな」  栃之木の太い両手が、妻の頸《くび》をしめつけた。 「本当は俺《おれ》が帰る前に、あいつを帰してしまうつもりが、俺が案外早かったんで、しまったと慌《あわ》てているんだろう? あいつと何をしたんだ?……さあ、正直にいえ、あいつとどういうふうにして……」 「何を、おっしゃるの、私が、どうして、吉井さんと……」 「お前はとりわけああいう男が好きなんだ。前の亭主《ていしゆ》だって、もやしみたいな貧弱なタイプだったじゃないか」 「放して……」 「一昨日は新宿で誰《だれ》と歩いていた?」 「え……」 「ちゃんと見てた者があるんだぞ」  その口調は、いよいよ陰険な憎悪《ぞうお》を孕《はら》んできた。 「一昨日も吉井といちゃついていたのか」 「ち、ちがうわ、あれは……」 「では、別れた亭主か」  秋子は必死に首を振った。 「あいつとも時々会ってるんじゃないのか。俺の目を盗んで、誰彼かまわず……お前はそういう女だ」  突然妻をつき放すなり、事務所にいる栃之木からは想像もつかないことばが、その口を衝《つ》いた。 「この売女《ばいた》め!」  同時に彼の掌《て》が、秋子の頬の上で炸裂《さくれつ》するような音をたてた。  その直後に、玄関のチャイムが鳴った。続いてドアが開いて、隣家の主婦が顔を覗《のぞ》かせた。 「奥さまぁ、いらっしゃる?」  栃之木が急いでそちらへ出ていくと、主婦は少しあわてたように瞬《まばた》きした。 「あら、先生」 「いや、家内が今、台所で手が放せないもんですから」 「まあ、それはどうも……いえ、さっき実家から巨峰を送って来たものですから、少しばかりお裾分《すそわ》けしようかと思いまして」 「すみませんねぇ、いつも」  栃之木は満面に笑みをたたえ、レンズの下の目は好人物そうに細くなっていた。 「日頃は家内がずいぶんよくしていただいてるそうで、みちるも可愛《かわい》がってもらって、本当に感謝してるんですよ」 「まあ、先生、そんな……」 「これからも何かとよろしく」 「いいえ、こちらこそ」  主婦はあわてて、深々とお辞儀を返した。少し出っ張りかけたお腹《なか》の上で、ぶどうの袋を抱えている栃之木を上目に見て、秋子はなんと幸せな妻だろうと、軽い嫉妬《しつと》すら覚えていた。    2  それから三日ほどした十月六日午後、栃之木が顧問をつとめているパーソナルコンピュータ関係の業者である沢野という男が、新橋の事務所へ彼を訪ねてきた。  弁護士としての栃之木は、刑事も民事も両方こなす有能で良心的な先生だといわれて、すこぶる評判がいい。いくつか大きな企業の顧問弁護士をつとめ、あまり金にならない刑事事件の依頼人に対しても、親身な態度で相談にのっていた。  沢野も彼の依頼人の一人だが、沢野の商売は企業と呼ぶほどの規模ではない。ここ一年くらいの間に急増しているパソコン用ソフトウエアのレンタル業者だった。  現在日本で、パーソナルコンピュータの機械(ハードウエア)は、全人口の四パーセントくらいに普及してきたといわれる。大企業では、それ相応に大きな機械を導入しているわけだが、比較的小規模な事務所では、小型のパソコンを備えて給与計算などに活用し、あとは家庭に出回っている。家庭の普及率は、全世帯の約五パーセントと推定されているが、これはパソコンゲームを楽しんだり、学習用に利用されている。  パソコンを設置している事務所や家庭では、用途に合うソフトを、マイコンショップで買うか、もしくは、通称貸しソフト屋と呼ばれるレンタルショップから借りてくることになる。  毎年百万台伸びるといわれるパソコンの流行につれて、レンタルショップもみるみる増え始めているが、沢野もそういう貸しソフト屋の一人である。以前は新宿で貸しレコード屋をやっていたが、昨年そこでパソコン用ソフトのレンタルも始め、予想外に収益が上ったことから、今年の夏には六本木にも貸しソフト専門の店を開いた。栃之木も一度覗いたことがあるが、ビルの一室を借りた、ちょうど貸しレコード屋くらいの店で、ちがうところは、レコードの代りにビジネス用ソフトやゲームソフトのカセットが、壁いっぱいに並んでいたことだった……。  栃之木は沢野を、事務室の突き当りにある応接室へ通させて、対座した。沢野はまだ三十五、六歳の、痩《や》せ型で、頭の切れそうな青白い細い顔をしている。 「どうですか、仕事のほうは?」  栃之木は、ゆったりとした包容力を感じさせる笑顔を向けて、尋ねた。 「はあ、お蔭《かげ》さまで、店のほうは結構回転してるんですが」 「いつかお寄りした時にも、ずいぶんお客が入っていたものねぇ。中学生くらいの男の子が案外多いんですね」 「小学校の高学年くらいから、相当なマニアがやってきますよ。三千円も五千円もするソフトは小遣いで買えなくても、うちへ来れば一割か、それ以下で借りられるんですから」  沢野はさりげなくいってから、テーブルの上に置いてあった自分の店の紙袋へ手を入れた。中から取り出したのは、縦五、六センチ、横十センチくらいのカセットだった。〈マイクロコンピュータ・シミュレーションゲーム・宇宙への脱出〉と書かれた水色のラベルが貼《は》ってある。それはパソコン用ゲームソフトの一つで、沢野が貸し出している商品であった。 「実は、SYシステムが、うちを訴えそうな気配なんですよ」  沢野はうすい唇を苦笑するように歪めた。 「なに、例の訴訟の相手に、おたくも加えるということ?」 「いや、あれとは別個に、SYシステムがうちだけを訴えるかもしれないんです」 「吉井さんが直接そういってきたんですか」 「いやね、実は昨日、吉井さんから電話があって、会いたいというんで、ぼくのほうから出掛けていったんですよ。うちの店では落着いた話もできませんのでね。そうしたら、うちが自粛しない限り、場合によっては提訴もやむをえないと、脅されちゃいましてねぇ……」  SYシステムというのは、ソフトウエアのメーカーで、吉井清次が社長である。規模は小さいが、社歴八年はこの業界では古いほうに入る。最初は主にビジネス用のソフトを作っていたが、最近はゲームソフトの開発も始めて、ベストセラー商品もいくつか発表しているらしい。  吉井の会社は、西新橋の、ここから歩いて五分ほどのところにある。栃之木が吉井と沢野と、両方の顧問弁護士をつとめていることは、二人とも知っているが、もともとはまったくの偶然だった。  ソフトウエアのメーカーがレンタル業者を訴えるケースは、すでにこの六月に発生していて、マスコミでも取りあげられ、成り行きが注目されていた。そのケースでは、メーカー数社が一団になって、最大手といわれる貸しソフト屋を著作権法違反で訴え、自社製品の貸し出し禁止を求める仮処分申請を東京地裁へ提出していた。メーカー側の言い分は、数百万円から数千万円もかけて開発したソフトウエアが、レンタル業者から安価に貸し出されては、メーカーはコストも回収できない。ゲームソフトは著作物で、映画の一種に当り、著作権法が映画に認めている「頒布《はんぷ》権」がこれにも適用されるはずであって、著作者の許諾を得ずに貸し出すことは頒布権の侵害になる、という主張であった。  これと似た問題は、レコードメーカーと貸しレコード屋の間でも発生しており、最近ではアメリカの映画会社が日本のビデオカセット貸し出し業者を相手取って、貸し出し停止を求める仮処分を申請している。  社会の発展につれて、過去には判例のない訴訟が持ち上ってくる端的なケースといえるかもしれなかった。  六月の提訴では、SYシステムもメーカーグループに加わっているが、相手は沢野の店ではないし、ほかのメーカーの顧問弁護士が表に立っているので、栃之木は直接タッチしていなかった。  が、今の話では、SYシステム一社が沢野の店を訴える気配であるらしい。 「それは、お宅の店がとりわけSYシステムの製品を大量に貸し出しているからということ?」 「いや、ほかのメーカーのも扱っていますよ」 「それじゃあ、また、どうして?」  栃之木が見守っていると、沢野はすんなりとした眉《まゆ》をひそめ、口許《くちもと》にはまたちょっと複雑な苦笑を滲《にじ》ませた。一度|溜息《ためいき》をついてから、その目をあげて、 「実はねぇ、コピーの問題なんですよ」 「コピー?」 「うちでは、最初はまあSYシステムのソフトを買ってくるんですが、あとはそれでいくつかコピーを作って、貸し出していたわけです。これもその一つで、ご参考までに持ってきてみたんですけど」  栃之木はカセットを手にとってみた。すると、水色のラベルの文字が、活字ではなくて、それらしく書かれた手書きであることに気が付いた。ラベルには、メーカー名も標示されていない。同じ製品がSYシステムから発売されているとすれば、素人《しろうと》が見てもすぐにコピーとわかるわけだった。 「このゲームソフトに付いていた説明書《マニユアル》なども、いっしょにコピーしたわけですか」 「それはまあ、当然マニュアルがないと、ゲームの進め方がわかりませんからね。——SYシステムでは、うちがコピーしていると睨《にら》んで、どうやらスパイを使って借りにこさせたらしい。そうやって現物を押さえた上で、ぼくを呼びつけたんですよ」 「うむ……」  栃之木はいささかむずかしい顔になって腕組みした。  六月にすでに提訴されている問題は、ゲームソフトにも映画と同じ「頒布権」が認められるか否《いな》かというのが争点になっている。裁判の成り行きはまだなんともわからないが、近い将来ソフトウエアに関する新法が制定されるだろうというのがおおかたの見方だった。  が、メーカーの製品をコピーして貸し出したとなれば、それ以前の問題である。ソフトの内容はもとより、それに付随しているマニュアルもコピーして、営利の目的で貸し出すわけだから、明らかに著作権法に触れる犯罪行為といわなければならない。 「しかし……ソフトのコピーというのは、そんなに簡単にできるものですか」 「まあね。ハードの機械と、こちらにある程度の知識があれば、それほど大変てこともありませんね。媒体によってはプロテクトのかかっているものもありますが、最近はそれを外すソフトまで、メーカーで売り出しているんですから」 「奇妙な業界だねぇ」 「まったくね。業界の歴史が浅いし、市場もまだ十分に育っていませんからね。仁義なきたたかいなんて書いてあったルポもありましたけど。コピーだって、ほんとは珍しいことでもないんですよ。もっと悪質な店だと、よそのレンタル屋から借りてきたものをコピーして、それより安く貸したりしてるんですから」 「それにしても、実際問題として、吉井さんに訴えられれば、勝ち目はないね。悪くすると、逮捕されかねないですよ。民事訴訟になれば、たちまち仮処分を受けて、すでにコピーしたものもいっさい貸し出せなくなります」 「それじゃあ、困るんですよ。ですから先生のお力で、なんとかまるくおさめていただけないかと思いましてねぇ。——いや、メーカー側は、何かといっては著作権だの頒布権だのと、嵩《かさ》にかかったことをいいますがね、実際の商品にはずいぶんお粗末なものも多いんですよ。満足なマニュアルも付いてないんで、動かし方がわからないとか、他社の古いソフトと、キャラクターの名前を変えただけで酷似したやつを新作として売り出したり、しかも製品は、ビニールでパックしてあるから、購入前に試してみることもできない。ビニ本商法なんていわれる所以《ゆえん》ですよ。おまけに不当に高いときている。そこでわれわれは、適切なマニュアルを付け加えたり、製品の不備な点を補った上で、子供さんや学生にも気軽に楽しんでもらえるよう、安価で貸し出しているわけです。あくまでユーザーサイドに立っての営業であって——」  もともと雄弁な沢野は、よく動く唇《くちびる》で、だんだん興奮して言い募った。それは六月の提訴を受けて立ったレンタル業者の、メーカーへの反論でもあった。が、メーカーの製品を無断でコピーし、有料で貸し出した行為まで、それで言い繕うわけにはいかない。  栃之木は、やんわりと相手のことばを遮《さえぎ》るように口を挟《はさ》んだ。 「今度の場合は、幸いわたしがSYシステムの顧問弁護士もつとめていますのでね。吉井さんのほうからもいずれ相談があると思いますから……」 「そのさいには、ぜひ先生のお口添えで、まあなんとか譲歩させるような方向にもっていっていただければ……」 「わかりました。わたしももう少し勉強した上で、あちらと話し合ってみましょう」  栃之木は、小柄《こがら》で眉の垂れた、どこかユーモラスともいえる吉井の容姿を瞼《まぶた》に描いた。運転席に掛けた彼のほうへ、屈《かが》みこむようにしていた秋子の姿も、ありありと浮かんできた。すると、今までの栃之木とは異質な、ある特殊な表情が彼の顔面をかすめたが、それは沢野が気付くほどのものではなかった。    3  十月八日土曜日、栃之木秋子は下井草のテニスクラブで、午後三時から五時までコーチをつとめた。彼女は正式にコーチの資格を取っているわけではないが、学生時代はテニスクラブの熱心な部員で、関東学生庭球選手権大会に出場して、上位の成績をおさめたこともある。  それで、卒業後も、あちこちのクラブでコーチのアルバイトをしていた。  銀行員だった最初の夫とも、三鷹《みたか》のテニスクラブで知り合った。秋子が二十四歳の時結婚して、男の子をもうけたが、三十歳で離婚した。同居していた夫の両親との折合いが悪く、夫が母親のいいなりになって秋子の気持を少しも理解してくれなかったことが、不和の原因になった。「性格の不一致」との理由で離婚し、子供は婚家に残してきた。秋子は連れて出たかったのだが、向うも意地になってはなさない。そうなると、秋子には生活力がないので、争っても勝ち目はなかった。  一年余りたってから、知人の医師に栃之木を紹介された。栃之木も離婚経験者だったが、子供はなく、両親は北海道にいるので、やもめ暮しだということだった。  たちまち二人は恋に陥《お》ちた。秋子の目に、栃之木は十六歳という年齢の隔たりなどまったく感じさせないほど若々しい魅力をたたえ、ほとんど非の打ちどころのない男性のように見えた。  結婚した翌年には、女の子が生まれた。  みちるが一歳をすぎると、秋子は彼女を実家や隣家に預けて、またテニスのコーチを始めた。あまり長く遠ざかっていると、身体《からだ》が動かなくなってしまう。そのことは、結婚する前から、栃之木も承諾していた。  彼が、自分の留守中の秋子の生活について、妙に詮索《せんさく》的になり始めたのは、その前後くらいからだっただろう。が、秋子はテニスだけは絶対に諦《あきら》めきれず、どうにか夫の許しを得ていた。 (テニスをしている時だけは、何もかも忘れていられるのだから……)  今も秋子は、そんな実感をかみしめながら、ロッカールームを出て、レストランと喫茶室のある中二階へ階段をのぼっていった。さっき別のコートで吉井を見かけ、彼も秋子に気がついて、目顔で挨拶《あいさつ》を送ってきた。彼がまだいるかもしれないという軽い期待が、知らず知らず秋子の胸を弾《はず》ませている。  案の定、レストランの窓際《まどぎわ》に一人で掛けていた吉井が、いち早く秋子を認めて、ちょっと片手をあげた。秋子はそちらへ歩み寄った。 「お邪魔してよろしいですか」 「どうぞどうぞ。連れはいませんから」  吉井は中腰になって、前の椅子《いす》を手で示した。 「いや、ぼくも今上ってきたんですが、あなたがいらっしゃるんじゃないかと思ってたところなんですよ。今日は指導していただけないで、残念でした」  秋子が女性の初心者たちの手ほどきをしていた間、吉井は別の男性コーチとプレイしていた。 「指導なんて。吉井さんにはこちらが教えていただきたいくらいですわ」 「とんでもないですよ。——それにしても、ここのクラブでは気持よくお仕事をされてますか」 「はい、お蔭《かげ》さまで」 「それならよかった。もし何かご不満でもあれば、遠慮なくぼくにいってください」  このクラブへ秋子を紹介してくれたのは、吉井だった。半年ほど前、知人の結婚式の帰りに、栃之木夫婦と吉井がホテルのラウンジでお茶を喫《の》む機会があった。その時秋子ははじめて吉井と会い、テニスが話題になった。当時秋子は、川崎のクラブでコーチをしていたが、何かと不都合な点が多く、それをちょっと口に出すと、栃之木のほうから吉井に、別のクラブへ紹介してやってはもらえまいかと持ちかけた。 「吉井さんはご自分でもテニス歴がお長いようだから、その方面のお知合いも多いのじゃありませんか。いや家内はテニスが何よりの生甲斐《いきがい》らしいのでね。ひとつよろしくお願いしますよ」  人前での栃之木は、秋子に対して、これ以上ないほどの心遣いを示すのである。  吉井はさっそく自分が所属している下井草のクラブのオーナーに、秋子を雇い入れるよう話をつけた。以来、顔を合わせるたびに、「何か不満でもあれば——」と気を使ってくれる。 「この間は送っていただいて、ありがとうございました」 「いや、こちらこそかえってご馳走《ちそう》になって……よかったら今日もお送りしますよ」 「でも、土曜日ですから、早くお家《うち》へお帰りになったほうが……」  吉井の家はここからほど近いと聞いていた。 「いやいや、土曜だからのんびりしてるんですよ。女房《にようぼう》も適当に遊んでますしね」  吉井は目尻《めじり》をさげて、屈託なさそうに笑った。 「しかし、考えてみれば先生もお早いはずだから、やっぱり早くに奥さんをお送りしたほうがいいわけですよね」  その時、ウエートレスがビールとオードブルを運んできて、吉井の前に置いた。秋子はコーヒーを頼んだ。 「あ、ちょっと待って」  吉井がウエートレスを呼びとめた。 「ぼくにもコーヒーくれない?」  秋子が怪訝《けげん》そうに見ると、 「いや、ぼく一人なら、少しくらいの飲酒運転もかまわないと思ってたんですが、すぐに奥さんをお送りするとなればね」 「あら、私にはおかまいなく。それに……私もそう急ぐわけではありませんし」 「……」 「主人が、今日は静岡へ出張して、泊ってくるそうですから」 「じゃあ、コーヒーはいらないや」  吉井がさっそく手を振ったので、ウエートレスまで笑い出した。  それならと食事もしていくことになった。  彼は秋子にもビールをすすめた。みちるは来がけに実家へ預けてきて、そのまま泊ってしまうことも珍しくない。秋子は久しぶりの解放感に浸っていた。  窓の外へ目を移すと、コートの先に、武蔵野《むさしの》の森がひろがり、見るまに夕闇《ゆうやみ》に包まれていく。風景が黒いシルエットに変っても、空にはまだ燃えるような黄昏《たそがれ》が留《とど》まっていた。  その窓をバックにした吉井の顔を見ていると、日頃《ひごろ》はちょっと貧相で、頼りないような感じがすることもあったが、その底に思いやりと深い洞察《どうさつ》力を持つ温い人柄なのだと、秋子にはしみじみ理解されてきた。二人はしばらくテニスの話をしていたが、やがて少しずつ個人的な話題に移った。  当然ながら、吉井が栃之木をその外面《そとづら》でしか見ていないことに、秋子は歯痒《はがゆ》さを覚えた。それは人と話すたびにのべつ味わっている感情だが、今日はなぜかひとしお痛切に、胸をかきむしられるような思いがした。 「それにしても、あなたはお幸せですねぇ。あれだけ立派なご主人に、この上もなく愛されていらっしゃるのだから」  何度目かに彼がそういった時、秋子はふいに衝動的な激しさで首を振った。 「ちがいますわ。主人はちっとも立派じゃないし、私を愛してなんかいません」 「……?」 「それは、弁護士としては有能かもしれませんけど、家へ帰ると、人が変ってしまうんです。私には異常なほど嫉妬《しつと》深くて、すぐに暴力を振るうし……外と内との顔があんなにちがう人を、私、見たこともない。一種の二重人格なんです」  今まで胸の奥に押しこめていたことばが、一挙に堰《せき》を切って迸《ほとばし》り出た。  最初のうち、吉井は信じられないという顔で目をむいていたが、秋子の頬《ほお》に流れ出した涙を見て、真剣に耳を傾け始めた。栃之木が、毎晩のように昼間の秋子の行動を詮索し、ちょっとでもはっきりしなければ、襟上《えりがみ》をつかんで問い糺《ただ》す。男性と親しく話したことでも想像されようものなら、「売女《ばいた》」と罵《ののし》って平手打ちを見舞う。それでいて、他人のいる前では、いやらしいほど秋子にやさしく、そんなあとほど、二人になった途端に乱暴する……。  秋子は洗い浚《ざら》いぶちまけた。 「今まで、誰《だれ》にも打ちあけたことなかったんです。私も、こんなことを人に知られるのは惨《みじ》めですし、主人の外面しか知らない方には、とても信じていただけないでしょうから。吉井さんも、信じてくださらないかもしれませんわね」 「いや、信じますよ」  涙に濡《ぬ》れた目を見返して、吉井は深く頷《うなず》いた。 「あなたが嘘《うそ》をつくはずはないし、人のことばが真実かどうかは、その人を見ていればわかるものです」  いつのまにか、外はすっかり暮れていた。二人はレストランを出て、前の駐車場で吉井の車に乗った。ラッシュのピークをすぎ、環状8号線を車は高速でとばしていたが、吉井はまた秋子の話に耳を貸しながら、ゆっくりと運転した。 「——しかし、栃之木先生とあなたとは、恋愛結婚も同然だったわけでしょう? 結婚される前には、少しも、その、異常な点に気付かれなかったのですか」 「もちろん、素振りも感じられませんでしたわ。ちょっとでもわかれば、結婚するはずはありませんし」 「では、いつごろからそういう……?」 「みちるが一歳の誕生日をすぎて、私がそろそろ子供を預けて外出できるようになりかけた頃でしょうか。いちばん最初は、何かのきっかけで私の以前の主人のことが話題にのぼった時、栃之木がひどくしつこく尋ねますの。容貌《ようぼう》とか人柄《ひとがら》とか、恥かしくて答えられないようなことまで……そして、私がちょっと前の主人を庇《かば》うようないい方をしたら、今でも忘れられないんじゃないか、俺《おれ》に隠れて会ってるんじゃないかなどと疑い始めて、終《しま》いに『売女』といって私を殴ったんです」 「へえ……」 「その時にはほんとに吃驚《びつくり》しましたけど、私が前の主人の話など持ち出したのがいけなかったのだろうと反省していたんです。でもそれ以後は、だんだんひどくなる一方で、前の主人に限らず、どんな男性にでも、物凄《ものすご》く猜疑《さいぎ》深くて、栃之木と知り合う以前のことまで根掘り葉掘り問いつめては、私を苛《いじ》めるんです」 「では、ご主人にそういう性格が顕《あら》われ始めたのには、これという原因はないわけでしょうか」 「ええ……ただ、あとで知ったことですけど、栃之木が前の奥さんと別れたのは、奥さんの浮気《うわき》が原因だったのだそうです。それまで栃之木は、人一倍奥さんを大切にしていたけど、浮気がばれた途端、怒り狂って奥さんを殺しかねない見幕だったとか……栃之木の側の身内から、ちょっと小耳に挟《はさ》んだ話ですけど」 「なるほど……」  二人はしばらくそれぞれの思いに沈んでいた。ほんとうに秋子は、栃之木の二重性格について、他《ほか》の人に打ちあけたのは、これがはじめてだった。実家の母親には愚痴をこぼしたこともあるが、心配をかけるので、あまりくわしい話はしなかった。外へ洩《も》らさなかったのは、秋子のプライドでもあるし、秋子が喋《しやべ》ったことが栃之木に知れたら大変なことになるという本能的な怖《おそ》れのためでもあった。それと、何かもう一つ、秋子自身にも説明のつかない自制が働いて、一人で耐え忍んできた。今日はふいとそのバランスが崩れたように、何もかも吉井に訴えてしまった……。  とりかえしのつかないことをしてしまったような、暗澹《あんたん》とした恐怖が、秋子の胸にひろがりかけている。  吉井にしても、他人の妻と重大な秘密を分け持ってしまったという緊張と昂奮《こうふん》と、また何か不安な思いで、その人の好《よ》さそうな顔に、いつになく深刻な表情を浮かべていた。  ようやく秋子の家に近付いた。  屋敷の塀《へい》に囲まれた三叉路《さんさろ》でカーブを切った吉井は、数日前にも秋子をこうして送り届けた時の様子を、改めて思い浮かべた。 「そういうことなら、この間もあなたにつらい思いをさせたんじゃありませんか。ぼくがお邪魔してたことを、先生に知られてしまったから」  秋子は唇《くちびる》をかみしめた顔で、かすかに首を横に振った。  鉄筋の二階家はひっそりと灯《あか》りを消し、ガレージには栃之木のベンツが納まっているのが、ほのかな外灯の光で認められた。今日は静岡へ出張するので、彼は朝、車を置いて出掛けたのだ。高級住宅街の路上は、まるでもう夜更《よふ》けのような暗さと静けさに包まれていた。  車を停《と》めた吉井は、遠慮がちに秋子を覗《のぞ》きこんだ。 「しかし、その、離婚しようとは思われないのですか」 「むろん、いく度か考えましたわ。でも、みちるのことを思うと……主人はみちるに対しては、とくべつ子煩悩《こぼんのう》ではないものの、まあふつうの父親です。私から別れたいといい出せば、子供は渡してくれませんでしょう。私、離婚してまた子供と引き裂かれるなんて、もう二度と耐えられないんです……」 「お気持はわかりますよ」  啜《すす》り泣いている秋子の肩へ、吉井はやや不器用に両手をそえた。 「これからは、何でもぼくに打ちあけてください。それだけでも、少しは気持がらくになるでしょう。それに、もしお役に立つことがあれば、何でもしますから」  吉井は思わず秋子を引き寄せて、その顔を自分の胸に埋めさせた。震えている背中をやさしく撫《な》でた。 「ぼくが味方になりますよ……ね、秋子さん」  呼びかけが「奥さん」から「秋子さん」に変ったことには、彼自身も気が付いていなかった。  彼が気付いていないことは、もう一つあった。彼の車がテニスクラブの駐車場をスタートした時から、濃紺の小型車が、一定の間隔を保ってその後ろを走っていた。吉井は秋子の話に心を集中して、道路の左側をゆっくりと走っていたから、尾行者にとってはこれほど都合のいいことはなかった。  今も、その車は、秋子の家の前から二十メートルばかり離れた三叉路の手前で、暗闇にひそむように停まっていた。運転席の窓からのばせる限り首をのばして、吉井の車を窺《うかが》っているのは、栃之木寛弁護士である。彼は今朝、ベンツを置いて家を出ると、午後にはレンタカーを借りて、秋子のコーチの時間が終る頃合いから、テニスクラブの出入口で張り込みしていたのだった。  青白い外灯の光が流れこむ吉井の車の中で、二つのシルエットが接近して、一つになった。吉井と秋子は、唇を重ねたわけではなかったのだが、栃之木の目には、そうとしか映らなかった。いずれにせよ、彼にとってその差は問題ではなかった。    4  十月十四日金曜日の午後七時すぎに、栃之木がSYシステム社長室の直通ナンバーをダイヤルすると、間もなく吉井の声が応答した。 「弁護士の栃之木ですがね。ご無沙汰《ぶさた》しています」  いつに変らぬ穏やかな調子で話しかけた。吉井は一瞬息をのんだ気配だったが、つぎには狼狽《ろうばい》したような早口で答えた。 「い、いや、こちらこそ。一遍先生のところへ伺わなければと思いながら、つい忙しくて……」 「わたしも、そのうち吉井さんからご連絡があるんじゃないかとは思っていたんですが。沢野さんとの間で、厄介《やつかい》な問題が持ち上っているようですね」  吉井の車を尾行した夜は、彼が帰っていき、秋子が家の中へひっこんだ直後に、栃之木は出張を早めに切り上げてきたような顔をして家へ入り、秋子を驚かせた。彼女はまだ外出着を着ていたので、今までどこで遊んでいたのかと、さんざんに責め苛《さいな》んだ。が、今しがた目撃したことは、口に出さなかった。従って、吉井もまだ栃之木に知られたとは思っていないはずである。 「ええ、まったくそうなんです。その件で先生にご相談しなければならないことがありまして」 「吉井さんは、今あいておられますか」 「ええ、一人で会社にいるんですが」 「じゃあ、ちょっと伺いますよ」 「それでしたらわたしのほうから……」 「いや、そちらのほうが落着いた話ができるでしょう。どっちみち、五分とかからないところなんだから……それじゃあ、これからさっそく」  栃之木は気さくな笑いといっしょに受話器を置いた。腕時計を見ると七時二十分になっている。  隣室では、事務員の阿部礼子がさっき栃之木に頼まれた書類をワープロで打っている様子だ。ワープロは、栃之木の部屋からは遠い側の、事務室の隅《すみ》に置かれている。礼子はまだ機械に慣れていないので、しばらく時間がかかるだろう。見習い弁護士の滝田が月曜から休みをとっているため、そのぶん礼子が遅くまで居残る日が増えていた。  栃之木はカーディガンを脱いで背広の上着を着け、非常口のドアをそっと開けた。冷えこんだ夜気と、都会の匂《にお》いが、彼をゆっくりと押し包んだ。ドアを閉め、手摺《てす》りの上に掌《て》をすべらせながら、螺旋《らせん》階段を下り始めた。背筋を真直《まつす》ぐのばして、脚だけを小刻みに上下させている彼の姿は、広告塔の白っぽい光に照らされたり、また影に入ったりして、素早くおりていった。  戸外はすっかり夜の色に塗り包まれている。盛り場を避け、ビルに挟まれた暗い道を選んで、吉井の会社へ急いだ。  SYシステムは、虎《とら》ノ門《もん》へ通じる表通りの一本西側で、間口の狭い細長いビルの二階と三階を占めている。十数人いるスタッフが、ビジネスやゲーム用ソフトの開発をして、実際にカセットやフロッピーディスクを作ることは、下請け会社に発注しているらしい。通称ソフトハウスと呼ばれるこの種のメーカーが、現在では国内に三百社余りできていて、まだ増え続ける形勢である。  吉井は、もともとは無線機などを扱う機械メーカーのエンジニアだったが、趣味でコンピュータを勉強しているうちに虜《とりこ》になり、八年ほど前に独立して今の会社を創《はじ》めた。現在でも、社長というより技術者のタイプで、従業員がみんな帰ってしまったあとでも、一人で会社に居残って新しいソフトの考案に没頭していることも珍しくなかった。  栃之木はほの暗いビルの裏口から入った。エレベーターに歩み寄ったが、気を変えて、階段をのぼった。  三階のフロアも灯りを落として、森閑としていた。社長室のドアをノックすると、吉井が中からドアを開けた。室内には明るい蛍光灯《けいこうとう》が輝いていた。 「どうも恐れ入ります、先生にわざわざお出向きいただいて」  吉井は本当に恐縮している様子で、小柄な身体《からだ》を二、三度折り曲げながら、栃之木を応接セットへ請《しよう》じた。飾り気のない室内には、壁の棚《たな》に自社の製品であるゲームソフトのカセットがいくつか展示してあった。 「いや、この間、沢野さんがうちへ来られてね。コピーの件で吉井さんに告訴されかけているんだがどうしたもんだろうと、ご相談を受けたんですよ。なにぶん専門的な問題なので、わたしも軽々しいことはいえず、吉井さんの言い分も伺ってから、考えてみましょうといって別れたんですが」  栃之木の口調はあくまで柔和で、謙虚にさえ聞こえる。 「いや、わたしもあれこれ迷っていたもんですから」  栃之木と向かいあった吉井は、彼の視線を避ける感じでテーブルに目を落とし、考えこみながら話し出した。 「あれは十月五日でしたか、最初に沢野さんとここで話をした時点では、こちらは一応警告を発して、それでもってあちらが自粛してくれればという程度に思っていたのです。というのが、実際のところ、コピーを追及し出したらきりがないのですよ。貸しソフト屋の実数はつかめないほど増えているし、当然ユーザーだってコピーをして、それをまた有料で貸しているかもしれません。ですから、基本的には、レンタル業者を法律で取り締ってもらわない限り、われわれは立ち行かないのです」  吉井は、六月の提訴でメーカー側が主張していることをくり返した。 「ただ、沢野さんとこでは、うちの製品のコピーが目立って多いし、しかも同じものをたくさん作って、どんどん貸している。そのやり方があまりに露骨なので、場合によっては告訴もやむをえないと匂わせたわけです」 「なるほど。その後は何も話し合っておられないのですか」 「いや、連休あけの十一日火曜でしたか、彼が夕方またここへやってきて、一応の和解案みたいなものを提示してきました」 「ほう。その内容は?」 「今まで無断でコピーを作ったことは悪かった。今後は絶対にやらない。また、今までのコピーに関しては、一|箇《こ》につき三パーセントのロイヤリティを払う。たとえば一つ五千円で売られているカセットなら、百五十円ずつ支払う。レンタル屋は定価の十パーセントで貸しているんだから、それ以上は出せないというわけです。ただねぇ、実際に何箇コピーを拵《こしら》えたのか、こちらでは掴《つか》みきれませんのでねぇ。あんまり現実的な話とも思えなかったんですが」 「条件はそれだけですか」 「あとは、発売後一箇月間はレンタルを控えるということです。先生もご存じかと思いますが、ゲームソフトの新製品は、書籍やレコードと同様に、毎月各社から発売されています。ただ、ほかの商品とちがう点は、非常に寿命が短くて、せいぜい三箇月くらいなんですね。それ以上たつと、もう古くなって、ユーザーの人気が離れてしまいます。ですから、新製品の発売後一箇月間レンタルを控えてくれれば、その間にこちらはかなり売れるわけですね。——それでまあ、沢野さんがそうした約束をすべて厳守して、しかも今後は絶対にコピーを作らないのであれば、これまでのことは不問に付そうかという気になりかけていたんですが……」 「沢野さんにも、そのように回答なさったわけですか」 「いや、十一日火曜の段階では、ひとまず先方の申し出をメモして、考えておこうと返事したのです。ところがですよ——」  吉井はふいに立ち上ると、後ろのカセットの棚の下にある備え付けの開き戸を開けた。パンフレットやほかのカセットなどが雑多に押しこまれている戸棚の隅に、テニスのラケットが斜めに立てかけてあるのが、栃之木の視野をかすめた。一瞬、ある種の特異な表情が彼の顔をよぎったが、吉井が振り向いた時には、それはもうほんのわずかな影を残していただけだった。 「コピーの代りに、彼はこんなものを作ったのです。いや、これも事実上コピーと同然ですが」  彼は戸棚の中から取り出したものを、テーブルの上に置いた。上の棚に並んでいるのと同じようなカセットのケースで、〈時計塔殺人事件〉というタイトルと、カラーの絵が印刷されている。 「これは、SYシステムがこの十日に発売したばかりの新製品のケースです。この種の推理ゲームは、ユーザーが探偵《たんてい》の立場になって事件を解決するというパターンで、日本ではうちが最初に開発した人気商品なんです」 「ほう」 「ところがです——」  吉井はケースの蓋《ふた》を開け、中に納まっていたカセットを出した。渡された栃之木が手に取ってみると、カセットには〈時計台殺人事件〉というラベルが貼《は》られている。紫色の文字は、印刷ではなく、サインペンの手書きだった。 「沢野の店では、うちの新製品のタイトルを一字ちがえ、内容もほんのわずか改竄《かいざん》して、あたかも別物のようにして貸し出しを始めたのですよ」 「そんなことができるものですか」 「些細《ささい》な部分的改竄なら、一日もかからないでしょう」  なるほど、と、栃之木は内心で納得した。沢野は、ひとまず吉井をなだめるための条件を提示しておいて、つぎにはこんな新手を考えていたのだ。栃之木にそれをいえば、謹厳実直な弁護士が承知しないだろうと思って、直接吉井と折衝を始めていたものであろう……。 「吉井さんは、それをどうやって入手されたのですか」 「今日の午後、わたし自身が、沢野の店の様子を見にいってきたのです。今まではうちのアルバイトにやらせていたんですが、今日は沢野のいない時間を見計らって、わたしが客を装いましてね。レンタル商品のカタログを見たら、うちの新製品にそっくりのタイトルがあるので、それを借りてきて、ハードにかけてみたら、内容もほとんど同じだったというわけです」 「うむ……」 「ですから、新製品が発売された直後に、類似品を作ったわけですね。しかも、二度とコピーはしないと誓った舌の根が乾かぬうちにですよ。こういうことでは、せんだっての約束だって、正直に守る気などあるはずはないですよ。あちらがそういう態度なら、こちらも断固とした手段をとるしかないと、決心していたところなんです」  人の好さそうな吉井の顔にも、さすがに怒りの熱気がたちのぼっていた。 「わたしはまだソフトの内容を見てないので、なんともいえないわけだが」 「何なら今からでもお見せしますよ。二つのソフトを続けてかけてみれば、ほとんど変らないということがすぐおわかりになります」 「いや、それはまた改めてにしましょう」 「そうですか。では近々、先生のお時間のある時に——」  吉井はちょっと残念そうに頷《うなず》いて、また栃之木の手から受け取った〈時計台殺人事件〉のカセットを、〈時計塔殺人事件〉のケースの中へしまった。戸棚の中の、ほかの自社製品が積んである上に、それを置いた。テニスのラケットが、再び栃之木の目に留まった。すると、一種の痙攣《けいれん》に似た表情が、栃之木の顔面をよぎった。その反応は、さっきよりも激しいものだった。 「——まあ、あなたのお話だけ伺っていると、非はすべてレンタル業者にあるように聞こえますが、しかし、ソフトウエアの業界では、その種のことは案外珍しくもないというじゃありませんか」 「その種のことといわれますと?」 「コピーですよ。メーカー同士でも、他社のヒット商品と酷似したものを作ったり、キャラクターの名前を変えただけで、平気で売り出しているところもある。メーカー自身がこれまで著作権をどれだけ尊重してきたのか、という声も聞きますがね」  最初は怪訝《けげん》そうだった吉井の顔に、徐々にある種の緊張と警戒の色が浮かんだ。まだ表面は穏やかな弁護士の口調の底に、棘《とげ》のような敵意の響きを感じとったからである。 「しかし……それはまあ、偶然同じ趣向のものができてしまう場合もありますが、意図的な盗作かどうかは、おのずとわかりますよ。それはほかの芸術や創作の分野でも同じでしょう。わかっていて他人のアイディアを盗んだのなら、泥棒《どろぼう》と変りありません」 「ほう。すると、他人の女房《にようぼう》を盗んだやつも、当然泥棒ということになりますな」 「な、なんと……」  吉井はあっと息をのんだ。弁護士の顔が突然一変していた。鼈甲《べつこう》縁のレンズの下で、日頃《ひごろ》はやさしげに細められている両眼が、みるみる異様に拡大されてくる。同時に、顔全体が赤紫にのぼせ、筋肉がひきつり始めた。それは何か生理的な発作に似ていた。 「あんたはテニスクラブから秋子を連れ出して、車の中でキスしたね」 「なにをいわれるんです、ぼくは、秋子さんとキスなんかしていない」 「秋子さんか。フン、白ばくれてもだめだ。俺《おれ》はこの目で見たんだから」 「いや、それは誤解——」 「あの五日ほど前だって、俺の留守中に、家の中で何をしていたのだ?」  栃之木は見開いた両眼を燃えるように光らせ、異常な歯ぎしりを始めた。 「俺の目を盗んで、二人で何をしたのだ? あのソファの上で……いや、きっと寝室へ入ったんだろう。そうにちがいない、奥の寝室で、あいつと二人でどんなふうにやったのだ?」 「冗談じゃない、下劣な想像はやめてください。ぼくらは決してそんなことをいわれるような……」 「嘘《うそ》をつけ。さあ、正直に白状するんだ。そうでないと——」  やおら彼はソファから立って、吉井に近づいた。小柄《こがら》な吉井に蔽《おお》いかぶさるように、両手で頸《くび》をつかんだ。指にはおそろしい力がこもっていた。 「さあ、いえ。ありのままをいえ」 「は、放せ……」  吉井は必死でその手をふりほどき、喘《あえ》ぐように叫んだ。 「本当だったんだな、秋子さんの話は」 「……?」 「あんたは二重性格だ。異常に猜疑《さいぎ》深くて、奥さんに暴力を振るう。すぐには信じられなかったが、やっぱりその通りだ。内と外とが、まるきりちがう二重人格者……」  いったん離れていた栃之木の両手が、突然また吉井の頸部《けいぶ》に巻きついた。馬鹿力《ばかぢから》というほどのすさまじい力で、無茶苦茶に絞めあげた。圧縮されたような呻《うめ》き声が、同時に二人の口から洩《も》れた。  吉井が動かなくなってからも、栃之木はなおしばらく、両手の指を緩めずにいた。  ようやく指を離すと、吉井の頸のあたりを眺《なが》めた。彼は上衣《うわぎ》の下にスポーツシャツを着ていた。栃之木の手が一瞬自分のネクタイに触れたが、すぐに離れた。彼は血走ったような目を、周囲へ移した。なかなか適当なものが見当らない。部屋の窓寄りには、吉井のデスクがあり、その上にモスグリーンのプッシュフォンが置かれている。栃之木の目は、そこでやっと止まった。デスクと応接セットとは三メートルほど離れている。  栃之木は吉井が凭《もた》れかかっている椅子《いす》をデスクのそばまで押していった。そこで受話器を掴みとった。コードをのばして、吉井の頸へ巻きつけた。喉仏《のどぼとけ》で交差させ、何度も締めた。極端なまでの念の入れようだった。これでもう絶対に、息を吹き返すことはないだろう……。  彼は受話器を掛け、椅子も元の位置へ戻《もど》して、深い息を吐いた。  逆上していた栃之木の顔は、しだいに蒼白《そうはく》に変り始め、思い出したような汗が続けざまに額からしたたり落ちた。  彼はハンカチを取り出して、顔中を拭《ぬぐ》い、つぎにはそれで、電話機とコードを丹念に拭《ふ》いた。テーブルや椅子、自分の指がさわったと思われる場所を拭き続け、死者の鬱血《うつけつ》した首筋までこすった。  それが終ると、彼は再び室内を見渡した。出窓を背にして吉井のデスクと、その横にパソコンが一台、あとは古ぼけた応接セットがあるだけの室内が、蛍光灯《けいこうとう》の光に寒々と照らし出されている。彼が入ってきた時と、どこも変った様子はない。ただ、部屋の主がぐったりと椅子に凭れているというだけで——。  何かし残したことはないか?  栃之木はもう一度吉井のそばへ寄り、鼻と口の上に掌《て》をあてがった。呼吸は確かに止まっている。  さあ、早く事務所へ戻らなければ——。  電灯はつけたままで、ドアを開け、ノブの両側とその周囲を最後に拭った。  帰りはエレベーターで降りた。  急げる限りの早足で、事務所のビルの前まで辿《たど》り着いて、彼は腕時計をすかし見た。八時五分すぎを指していた。さっきここを出てから、まだ四十五分しかたっていないわけだ。  彼は一回深呼吸をしてから、ネクタイに手をやった。さすがに疲れきった足どりで、さっきおりた螺旋《らせん》階段をのぼり始めた。広告塔の白っぽい光を浴び、また影に入ったりしながら、上るうちに、彼の顔は徐々に、日頃の柔和な表情を取り戻していった。    5  霞夕子《かすみゆうこ》が、検察事務官の桜木洋といっしょに、西新橋二丁目の現場へ到着したのは、十月十五日の午前零時十五分になっていた。  パーソナルコンピュータのソフトウエア・メーカーの社長が、会社の自室で絞殺されているという報《し》らせは、東京地検刑事部の副部長から、霞夕子の自宅へ届いた。警視庁捜査一課が地検に連絡し、宿直検事が副部長へ、副部長が夕子に報らせて、現場への臨場を促したものである。事件発生当初から、本庁捜査一課に捜査本部が設置されるに決まっているほどの大事件だと、本部係検事が現場へ赴くことになっている。が、そこまでの予測がつかない場合や、本部係検事が多数の事件を抱えて手一杯だという時には、その方面を担当する検事の主任が現場に立会う。霞夕子は四十二歳で、丸の内、麻布《あざぶ》、築地《つきじ》方面から大島、八丈島まで含む広範囲の一方面主任検事なのである。  台東区に住居のある夕子は、すぐに検察事務官の桜木に事を伝え、自分の車で家を出た。幸いに彼は文京区|本郷《ほんごう》に住んでいるから通り道に当る。マンションの前で彼を拾い、時には制限速度をオーバーするくらいのスピードで現場へ駆けつけた。これも、まず所轄《しよかつ》署に寄って案内を頼むほうがふつうなのだが、わかりやすい場所なら現場へ直行することにしている。  原則はともあれ、実際にはすべての事件現場へ、検事が臨場するわけではない。が、出向く限りは、一刻も早く到着しておかなければ、ありのままの状態を自分の目で見られないし、警察官への助言の機会を失うことにもなると、夕子は先輩検事から常々いわれてきた——。  そんなわけで、彼女らがビルの三階にある社長室の前に着いた時には、鑑識課員の現場検証が開始されて間もなくという段階であった。  所轄の東《ひがし》愛宕《あたご》署の当直だった警部補が、部屋の出入口で、夕子に事件のあらましを説明した。室内では指紋や足跡等の採取中なので、むやみに足を踏み入れることはできない。 「被害者はここの社長で吉井清次、四十一歳。応接セットの椅子の上で、正面から頸部を指で扼《し》められ、仮死状態のところを絞殺されたという状況です」  警部補は椅子の一つを指さした。被害者は今、その下の床に横たえられている。茶の背広の下にベージュ色のシャツを着た、小柄な男のようだ。 「室内にはとくに乱れはなく、およそ現在と同じ状態で、物色されたり、金品を奪われたような形跡も、今のところ認められません」 「抵抗のあともなかったわけですか」 「ええ……椅子に掛けていた時に、いきなり襲われたような感じで」 「頸を絞めるのに使われた紐《ひも》などは?」 「いや、それはまだ見つかっていません」  死亡推定時刻は、十四日午後七時から九時の間と見られているという。 「奥さんが、十一時二十分頃発見して、隣の部屋の電話から一一〇番したのです」 「そんな時刻に、奥さんが会社へ来たんですか」 「ご主人の帰りが遅いし、電話を掛けても通じないので、心配になって様子を見に寄ったといっています」  彼女はまだ別室にいるので、あとで直接話を聞くことにした。  夕子は、踏み板を伝って、室内へ入った。  突き当りに、大きなデスクと、それに向かって、革張りの肱掛《ひじか》け椅子がある。使い慣れた、いかにもすわり心地のよさそうな椅子だった。デスクの上には、書類|籠《かご》や灰皿《はいざら》などと、モスグリーンのプッシュフォンが置かれている。  応接セットは出入口の左手に当り、ソファと、向かい側に椅子が二脚。テーブルの上には、からの灰皿が一つだけ。夕子が目を戻すと、デスクの上の灰皿には、吸い殻《がら》が数本たまっていた。 「犯人は、たぶん一度はこのソファに掛けたのでしょうねぇ」  夕子が独り言のように呟《つぶや》くと、まだ若い警部補が、さっそく異論を唱えた。 「いや、部屋へ入ってくるなり、椅子に掛けていた被害者に、抵抗の隙《すき》も与えず襲いかかったという可能性もあるんじゃないでしょうか」 「だけど、そうすると、被害者は一人でいたうちから、応接セットの椅子に掛けていたことになるわね。考えごとでもするのなら、あちらの肱掛け椅子のほうが心地よさそうに見えるけど。それに、こちらでは、煙草《たばこ》を一本も吸ってないようだし」  警部補は口をつぐんで、夕子を横目で見た。  反対側へ視線をめぐらせた夕子の眸《め》が、一瞬輝いて見開かれた。小型テレビの前にタイプライターのキイがついたような機械が置かれている。 「あれは……?」 「パソコンでしょう」 「ああ、あれが今|流行《はや》りのパソコンてものなの!」  突然彼女が高い声を発したので、室内にいた者がいっせいに彼女を見返った。その声はとび抜けてよく響く上に、まわりの雰囲気《ふんいき》にはなんとも不似合いな、ゆるりとしたトーンを含んでいるのだ。  不似合いといえば、彼女の容姿もまた、女性検事というシャープなイメージからはほど遠い。百五十センチそこそこの小柄な体躯《たいく》。色白のつやつやした肌《はだ》をして、目は大きいが、鼻が低くて頬《ほお》がふっくらしている。理知的というよりむしろ滑稽《こつけい》なお多福顔の印象である。今年の三月に一方面主任に任命されて以来、半年あまりたつので、夕子の顔は大分|憶《おぼ》えられてはきているものの、中にはあの珍妙な中年女は何者かと、吃驚《びつくり》している捜査員もいるにちがいなかった。 「思ったより嵩《かさ》ばらないものなのねぇ。いえ、地検でもワープロを導入し始めたとは聞いていたんですけど、私はそれもまだ一度も見たことがなかったんですよ」  吉井の妻ますみ三十四歳に、本庁捜査一課の警部が隣室で事情聴取を始めた。所轄署の捜査員らも同席し、夕子と桜木はその後ろで見守っている。現場はもとよりのこと、被疑者が送検されてくるまでの捜査段階では、表に立つ活動は警察官に任せなければならない。  吉井夫妻の間には子供がなく、ますみは麻布にあるインテリアデザイン事務所に十年以上も勤めているという。すっきりしたショートヘアで、見るからにキャリアウーマンのムードを身につけていた。 「主人はもともと技術屋肌の人で、新製品の開発なども、自分でアイディアを出してやっていたようです。ですから、よく一人で会社に残って、仕事をしておりました」  ますみは目を赤くして、時々涙を拭いながら、声はむしろ興奮した調子で答えた。 「でもそんな時には、私の事務所か、家のほうへ、きちんと連絡してくれました」  十四日の晩は、ますみも仕事で遅くなるため、七時五十分|頃《ごろ》、吉井の部屋へ直通電話を掛けた。が、その時は話中だった。SYシステムの代表番号にも掛けてみたが、みんな帰ったあとらしく、応答がなかった。 「つぎは九時と十時まえの二回、社長室と家に電話を入れたのですが、どちらもベルは鳴るのですけど、誰《だれ》も出ません。主人がどこかへ出掛けて、めずらしく連絡するのを忘れたのかしら、くらいに思っておりました。私は、十時すぎまで仕事をして、そのあと事務所の人たちと近くのスナックへ行きました。十一時頃そこを出て、なんだか気に掛ったものですから、主人の会社へ寄ってみることにしたんです……」  ますみは自分の小型車を持っている。それでSYシステムのビルの前に着いたのが、十一時二十分。灯《あか》りがついていた社長室へ入って、夫の死体を発見し、一一〇番したということである。 「この部屋の電話は使われなかったそうですね」 「はい……現場には手を触れないほうがいいんじゃないかと、夢中でそう思ったものですから」  その時、ノックと共にドアが開いて、現場服を着た鑑識課の責任者が入ってきた。現場検証が一通りすんだことを、警部に告げた。ますみには聞き取れないくらいの低声《こごえ》だったが、夕子の耳には届いた。 「——犯人の遺留品はこれといって発見されません。足跡も明確なものは採取できませんでした。指紋は、被害者のデスクと、パソコンの周辺、カセットの置いてある棚《たな》や下の開き戸などからは、多数検出されているのですが、応接セットのテーブル、ソファや椅子、それと電話機からは一|箇《こ》も採れないのです。おそらく犯人は、自分が手を触れた場所を拭いてから逃走したものと思われますが……」  あらましの報告が終ると、警部は再び事情聴取を続けた。 「するとつまり、七時五十分に奥さんが社長室へ掛けた時には話中で、九時以後は、ベルは鳴るが応答なしという状態だったわけですね」 「はい。ですから私思いますに、主人は私が最初の電話を掛けたあとで、七時五十分から九時の間に襲われたんじゃないかと……」 「当然その可能性が強いと考えられますね」  警部は頷《うなず》いて、確認するような眼差《まなざし》を周囲にめぐらした。その目が夕子とぶつかり、ちょっとの間|留《とど》まっていたので、 「まあ、そうとばかりも決められませんでしょうけど」  夕子は意見をのべた。例によって、一同の注視が彼女に集った。 「だって、犯人とすれば、吉井さんが電話を掛けている最中に襲えば、通話先に異変を感じさせる危険性が強いですわね。では、吉井さんが電話を切ったあとの犯行だとしたら、犯人が電話機の指紋まで拭いとる必要はありませんでしょう」 「すると、七時五十分の話中以前に、犯行が終っていたかもしれないとおっしゃるわけですか」 「そういう可能性もあるという程度ですけど」 「なるほど。犯人自身が、犯行後にどこかへ電話を掛けたという場合も想像できますからね」  体格のいい警部は、ゆったりと苦笑した。 「しかしね、一分でも早く現場から立ち去りたいという犯人の心理に照らせば、その行為にはあんまり現実味があるとは思えませんが」 「いえね、私がふと思っていたのは、別のことですの」  夕子は大きな目を二、三度|瞬《まばた》きして、奇妙におっとりした声でいい返した。 「たとえば犯人が、自分の指で吉井さんを扼めつけて失神させたあと、ほかに適当なものがなかったので、電話のコードを絞殺の凶器に使ったのだとしたら、とね。その場合には、犯人はあとで指紋を拭わなければならなかったでしょうし、それに、他人の頸《くび》を絞めるために受話器を取りあげていた間でも、よそにはお話中になったでしょうからねぇ」    6  事件の報《し》らせを聞いて、営業部長が渋谷の自宅から駆けつけてきた。まだ三十二歳の学生のようなムードの男で、捜査側はますみと彼から別個に詳しい事情聴取を行った。  吉井殺害の動機関係を尋ねたところ、二人は揃《そろ》って、沢野靖正の名を挙げた。 「沢野さんのレンタルショップが、うちの製品をコピーしては、安く貸し出していると、主人は非常に憤慨しておりました。日頃は、どちらかといえばおおらかな性格でしたけど、これだけはメーカーの死活問題だと息まいていました。あちらも相当感情的になっていたのじゃないでしょうか」  この件について、営業部長はもっと具体的に説明した。 「うちの社員やアルバイトの者が、客を装ってあちらのレンタルショップへ出向き、コピーされたうちの製品を何度も借りてきています。現物を押さえているんですから、動かぬ証拠があるわけです。あちらの出方によっては、社長は告訴も辞さないという姿勢でした」 �現物�のケースに入っていないコピーのカセットは、社長室の、自社製品が展示されている棚の下の戸棚に、六箇ほどしまわれていた。 「その問題について、沢野さんと話合いをされたことはなかったのですか」 「十月に入ってから、沢野さんが二度ほどこちらへ来て、社長と話合っていたようですが、くわしい内容までは聞いていません。いよいよ提訴するとなれば、社長は顧問弁護士の栃之木先生に相談するつもりだったと思いますが」  翌日から、本格的な初動捜査が開始された。  現場付近の聞込みと、吉井清次の人間関係をめぐる調査との両面が進められた。  現場付近では、あやしい人影を見たなどの目撃者を得ることはできなかった。  人間関係の捜査でも、沢野以外にはこれという容疑者は見当らなかった。もとより流しの犯行とは考えにくい状況である。勢い、容疑は沢野へ集中した。  沢野自身は、吉井とは円満な話合いがつく見通しだったと主張しているが、周辺の聞込みの結果は、沢野が陰で吉井をひどく罵《ののし》っていたとか、意地でもコピーをやめる気はないとうそぶいていたなどの事実が浮かんできた。だが、もし吉井に訴えられれば、沢野は逮捕される可能性があるし、仮処分を受ければ、事実上営業できなくなっていただろう。  吉井の死亡推定時刻とされる十月十四日午後七時から九時の間の行動について、沢野は—— 「七時半頃、六本木の店を出て、七時四十五分頃から九時少し前まで、南青山にある行きつけのスナックに寄っていました。ママと娘とでやっている小さな店で、その間はたまたま誰も客は来ませんでしたが、ママたち二人がぼくのアリバイを証明してくれるはずです」と答えた。  当初二人は、沢野の供述を認めた。が、娘の態度にどこか不審を覚えた捜査員が、執拗《しつよう》な内偵《ないてい》を続けた末、彼女が自分の恋人に、沢野のアリバイは、彼と愛人関係にある母に頼まれて、口裏を合わせただけだと洩《も》らしたことを突き止めた。  沢野が偽《にせ》のアリバイ工作をして、それが崩れたことが判明した時点で、東愛宕署は彼の逮捕に踏み切った。  パソコンソフト・メーカー社長殺しの被疑者として、沢野靖正が東京地検へ送致されてきたのは、事件発生から十二日後の十月二十六日午後であった。  地検三階刑事部の一方面主任の部屋へ連れてこられた沢野は、そこで手錠を解かれて、霞夕子のデスクの前に腰掛けた。年齢は三十五歳、背の高い細面《ほそおもて》の男で、男にしては赤めの、うすい唇《くちびる》は雄弁そうにも見えた。  夕子は、傍《かたわ》らに掛けている検察事務官の桜木洋に、目顔の合図を送ってから、送致書類を開いた。  被疑者が最初に押送《おうそう》されてきた時には、まず警察の送致書に記載されている「犯罪事実」を読み聞かせ、弁解を録取するのが通例である。 「被疑者は、昭和五十八年十月十四日午後七時五十分頃、東京都港区西新橋二丁目、SYシステム社長室において——」  文章も形式が決まっている。読みあげる夕子の声は、例によって高くてよく通る。それでいて、こんな時でさえ、どことなくのどかに歌うような響きを含んでいるのだった。  送致書類の内容を総合すれば——十月十四日夜、沢野は予《あらかじ》め電話をした上、六本木の自分の店から、自分の車で吉井の会社へ赴いた。社長室に一人で居残っていた吉井と対座して、コピーの問題を話合ううち、口論となり、沢野は吉井に襲いかかって両手で頸を扼《し》めた。失神させた上、さらにデスクの上の電話機のコードで、吉井を絞殺した。その後、テーブルや椅子《いす》、電話機、出入口のドアの把手《とつて》などに付着した指紋を拭《ぬぐ》って、逃走したものである。(検証の結果、吉井の頸部《けいぶ》に残っていた索条痕《さくじようこん》は、電話のコードのようなもので絞められた跡と認められた。また、ドアの把手には、第一発見者の妻吉井ますみの指紋しか付いていなかった) 「今読んだ事実に、まちがいありませんか」 「まちがいどころか、全部|出鱈目《でたらめ》ですよ」  沢野は、手錠のはまっていた手首を大袈裟《おおげさ》にさすり続けながら、憤然としていい返した。 「ぼくは、あの日は六本木から中野の家へ、真直《まつす》ぐ帰ったんです。吉井さんの会社へは行ってないし、彼を殺してなんかいませんよ」 「でも、それならなぜ、南青山のスナックに寄ったなんて、偽のアリバイ工作をしたのですか」 「自分の立場が非常に危険だと、すぐに読めたですからね。その上、ぼくが真直ぐ家に帰ることなんか、ふだんめったになかったから、そんなこといっても信用してもらえないと思ったんです」 「では、あの日に限って、どうして真直ぐ帰ったわけ?」 「女房《にようぼう》のお袋さんが急に入院して、女房がそっちへ手伝いに行ったんですよ。昼間に電話が掛ってきて、五つと三つの子供を二人で留守番させとくというもんですから、ぼくもなるべく急いで帰ったわけです。つまり、あの晩のぼくのアリバイを証明できるのは、子供たちだけで、そんな小さな子供の、それも身内の証言じゃあ、とうてい取りあげてもらえないと思いましたからね」 「まあ、それはどうかわからないけど」  夕子は大きな目をむいて、被疑者を眺《なが》めまわした。沢野は、警察でも終始犯行を否認していた。が、偽のアリバイ工作が露顕したために、状況証拠は決定的に不利となった。とかく姑息《こそく》な策を弄《ろう》すると、かえって自分を追い詰める結果になる。沢野は、いかにもその種の失策を犯しそうなタイプの男に見える……。 「吉井さんは、ほんとに電話のコードで頸を絞められていたんですか」と沢野のほうから尋ねた。 「そう推定されています」 「ぼくだったら、そんなこと、考えられませんよ」 「なぜ?」 「だって、見るからに絞めにくそうじゃないですか」  彼は夕子のデスクの電話機に目をやった。夕子もつられて眺めた。受話器に繋《つな》がっているコードはクルクルとコイルしていて、実際頸を絞めるにはあんまり適当な凶器とは思われない。それに、吉井が掛けていた椅子と、電話機のあるデスクとは離れていたはずだ。犯人がコードを使ったとすれば、椅子をデスクのそばまで引き寄せ、犯行後はまた元の位置に戻《もど》しておくという労をとったと想像されるのだ。 「じゃあ、ほかにどんなものがあるかしら」 「もっと手近な、たとえば相手のネクタイなんか」 「被害者はネクタイを締めていなかったのです」 「それじゃ、自分のネクタイだ」 「人の頸を絞めたあとで、またそれを自分の頸に締めるんですか」 「まさか。そのまま持ち帰って、どこかに捨てますよ。そうすれば、電話機の指紋まで拭《ふ》くような、余分な手間が省けるじゃないですか」  沢野は女性検事を小馬鹿《こばか》にするような、鼻にかかった笑い声をたてた。  この日は弁解録取書を作成することが主な目的なので、夕子は間もなく沢野を帰らせた。彼の身柄《みがら》は、東愛宕署の代用監獄に置かれている。 「もし、自分のネクタイで人の頸を絞めてしまったとしたら——」  押送人に連れられて、沢野が姿を消した途端に、夕子は桜木の頸のあたりに目をやっていった。桜木洋は今年二十六歳で、この三月に夕子が一方面主任に任命されて以来、彼女の立会事務官をつとめている。一見神経質な秀才風だが、実際には快活な青年で、「忙しすぎてデートもできなくなった」とぼやきながらも、「よく動く検事」の夕子とコンビを組んだことを、さほど迷惑にも感じていないのだ。 「あなたなら、そのネクタイをどうするかしら」  同室で別の事件の参考人を調べていた新任検事が、自分のネクタイに手をやって咳払《せきばら》いをした。 「やっぱり、捨てるでしょうねぇ。とてもまた締める気にはなりませんね」と、桜木も首を揺すりながら答えた。 「犯行後、自宅へ帰るのなら、それでもいいかもしれないけど、またネクタイを締めておかなければおかしいような場合だったら……?」 「そうですねぇ。新しいネクタイを買うとか……」 「そうね。あるいは逆に、そういう立場の犯人なら、絶対に自分のネクタイを凶器に使うことは避けるでしょうね」  ソフトウエアのコピーをめぐるトラブルを、沢野はすでに顧問弁護士に相談していたとのべている。事件発生後は、その栃之木寛弁護士が、沢野の弁護人を引き受けていた。  吉井と沢野の間の紛争を、客観的に知るためにも、夕子は栃之木の話を聞きたいと考えた。  桜木事務官が栃之木の事務所へ電話して、都合を尋ねると、栃之木のほうから地検へ出向くことを快諾してくれた。 「公判部の検事さんから耳にしたことですが、栃之木弁護士という人は、実によくできた、評判のいい先生だそうですね」と、桜木がいった。  十月二十八日の午後三時きっかりに、栃之木は夕子の部屋へ姿を見せた。地裁の法廷をつとめたあとで隣の地検へ寄るという約束通りの時刻だった。  やや肥満気味の堂々とした体格を焦茶《こげちや》のダブルで包み、鼈甲《べつこう》縁の眼鏡が、上品な顔立ちに温和さと風格との両方を加えているかのようだ。 「わざわざご足労いただいて恐縮でございました」  夕子のていねいな挨拶《あいさつ》に、 「いやいや、どうせ地裁まではのべつに来ているのですから」  栃之木はなごやかに目を細めた。 「ところで、先生は事件の前から、コピーの問題で沢野さんの相談をお受けになっていらしたのですね」 「そうです。今月の六日でしたか、彼が事務所へ来ましてね。その前日に、吉井さんの会社へ呼ばれて、場合によっては告訴も辞さないといって脅かされたと、頭を抱えていました」 「それで、先生は何と——?」 「いや、わたしもその時はじめて、コピーのいきさつを打ちあけられたようなわけで、実のところ、ゲームソフトの内容などにもあんまり詳しくなかったものですから、ある程度勉強した上でないと、簡単には答えられなかったのです。吉井さんからも当然ご相談があるはずだから、あちらの言い分もよく聞いておこうといって帰したわけですが」 「その後吉井さんからも、やはり相談がございましたか」 「いや、それがとくにはなかったのですよ。考えるに、吉井さんは、いよいよ提訴するとなれば、わたしは両者の顧問弁護士をつとめている立場だから、何かと不都合な事態が生じるかもしれない。それで、別の弁護士を立てるおつもりではなかったんですかな」 「やはり訴える気でいたと思われますか」 「おそらくねぇ。吉井さんにしてみれば、コピーを作られるということは、苦労して開発した製品をまるごと盗まれると同じわけですからねぇ。沢野さんの口吻《こうふん》から察するに、お互いに大分感情的にもなっていたようですし」  栃之木は、遺憾にたえぬという表情で眉《まゆ》をひそめた。 「被疑者の供述によれば、十月十一日に自分は再度吉井さんの会社を訪れ、二、三の条件を出して和解を申し入れた。それでお互いのムードがかなり好転し、吉井さんはこちらの提示した条件を会社の用箋《ようせん》にメモして、考えておこうと答えたというのです」  そのことは、沢野が警察で供述し、最初にここへ押送されてきた時にも、夕子に向かって力説していた。が、そのメモはどこからも発見されていなかった。 「わたしは聞いていませんが」  栃之木は首を傾《かし》げた。 「——すると、先生は最近吉井さんとは直接会っておられなかったわけですね」 「いつでしたかなあ、最後にお会いしたのは……」 「あちらの会社へいらしたことは?」 「勿論《もちろん》何回かありますが、最近は……そう、ここ三箇月くらいは行ってなかったですねぇ」  弁護士はむしろ残念そうに答えた。 「それにしても、吉井さんとは長年ご昵懇《じつこん》の間柄でいらしたように伺っていますが——?」 「勿論です。真面目《まじめ》で誠実で、それでいてほのかなユーモアの漂う、実にいい方でしたからねぇ」 「仕事のほかには、テニスが趣味だったようですね」 「ええ」 「下井草のクラブのメンバーだったそうですが」  わずかな間《ま》を置いてから、栃之木は思い出したように頷《うなず》いた。 「そんな話も聞いていました」 「先生もテニスを?」 「いやいや」  彼は口許《くちもと》をほころばせた。 「以前にわたしも誘われたんですがね。もう手遅れのようですよ」  出っ張りかけた腹部を部厚い掌《てのひら》でさすった。  夕子も約束通り、三十分以上は彼を拘束しなかった。 「公判部の女性検事は何人か存じあげてますがね。刑事部の女性キャップは、霞さんがはじめてじゃないですか」  栃之木はちょっと眩《まぶ》しそうに笑いながら夕子を眺めた。 「お噂《うわさ》は聞いてましたが、お目にかかれて光栄でした」  桜木にも犒《ねぎら》うような会釈《えしやく》を送って、椅子を立った。踵《きびす》を返し、歩き出しかけて、彼はゆっくりと振り向いた。微笑の影が、まだその口許に残っていた。 「テニスクラブといえば、たまたまうちの家内がコーチのアルバイトをしているんですがね。吉井さんは誰《だれ》とでも気持よく付合っておられたという話ですよ」    7  吉井殺しの容疑者として沢野が逮捕されて以来、マスコミはその事件をいよいよ派手に報道していた。パソコンのソフトウエアのメーカーと、レンタル業者との対立は、世間の注目を集め始めていて、その矢先にまるでその構図を浮き彫りにするような殺人事件が発生したからであろう。  夕子は、沢野の勾留《こうりゆう》請求をして、取調べを続けているが、彼を犯人と断定するには、いまひとつ決定的な証拠が乏しい。このまま起訴すれば、公判維持に不安が残った。  そうした場合には、検事の取調べ段階で、いわゆる「消去捜査」が必要になってくる。被疑者以外に容疑者のいる可能性を消去するための捜査、とでもいったものである。  とりわけ、マスコミを騒がせているケースでは、時には被疑者以外に別の真犯人がいるような世評が生み出される場合がある。そんな時にはその可能性を消去しなければならないし、逆に、マスコミの報道に押されて、証拠不十分なまま、安易に被疑者を起訴することのないように、そのためにも消去捜査が肝要なのであった。  土曜日は、地検での仕事はふつう午後二時|頃《ごろ》に打ち切る。そのあと夕子は、パサートの助手席に桜木を乗せ、被疑者が拘置されているあちこちの警察署を回って、取調べを続ける。  十月二十九日土曜日、夕子は午後四時頃、荻窪《おぎくぼ》署をあとにすると、国電荻窪駅の前まで桜木を送ってやった。たまには彼にも息抜きをさせてやらなければいけない。  桜木を帰したあと、夕子は少しの間思案していたが、やはり予定通りに行動することにして、車をターンさせた。  青梅《おうめ》街道から環状8号線へ入り、北へ走るにつれて、木立や畑が目立ち始める。褐色《かつしよく》を帯びた樹林の間で、落葉を焚《た》くような煙がうっすらとたなびいているのを見ると、いかにも秋らしい風情《ふぜい》が感じられる。井草は杉並区の北端部になるわけだが、この辺までくると、都内でもまだ季節感が残されているのだろう。  下井草のテニスクラブは、ネットの上に高い看板を掲げていたので、見つけやすかった。土曜日のせいか、レストハウスには人の出入りが多く、その向う側にあるコートのほうから、打球の音が重なりあって響いてくる。  夕子が、事務所にいたマネージャーに自分の身分を告げると、内側の応接室へ案内された。  四十すぎのマネージャーに、夕子は吉井の交友関係などをあれこれ尋ねてみたが、事件と関《かか》わりのありそうな話は出てこなかった。栃之木弁護士がのべていた通り、吉井は誰とでも気持よく付合って、トラブルを起こすようなことはついぞなかったらしい。 「来年の三月まで、会費を先払いしていただいたばかりでした。ロッカーもまだそのままにしてありますんですけどねぇ」  マネージャーは痛ましそうに肩をすぼめた。 「吉井さんの奥さんは、テニスをなさらないのですか」 「いえ。女房《にようぼう》はゴルフのほうが好きらしいなんて、吉井さんは笑っておられましたが」 「そういえば、栃之木さんという弁護士の奥さんが、コーチをしていらっしゃると伺いましたけど」 「ええ、吉井さんのご紹介でこちらに勤めるようになられたんですよ」 「あら、それは知らなかったけど」 「今日も見えてますよ。もう上るはずですけどね」  三十分も話しているうちに、外は急速に暮れてきた。クラブは五時までだという。  ロビーの見通せる応接室で、夕子はまたしばらくマネージャーと雑談していたが、着替えを終えた栃之木秋子がロッカールームから出てきた時に、教えてもらって席を立った。  秋子は三十七、八歳だと聞いたばかりだが、四、五歳は若く見えた。スポーツをする女性らしく、引き締ったスタイルと小麦色の肌《はだ》をして、顔立ちは現代風で目許が涼しい。 「失礼ですけど、栃之木さんですわね」  声をかけられた秋子は、自分よりずっと小柄《こがら》な夕子を、怪訝《けげん》そうに見返した。 「私、東京地検の霞と申しまして、吉井さんの事件を担当している検事ですの」 「検事さん……?」  秋子はいよいよ驚いたふうで、夕子の顔から、ブレザーの襟《えり》のバッジへ視線を移した。夕子は念のために名刺を渡した。 「今日はちょっと吉井さんのことをお尋ねしにきたんですけど、あなたが吉井さんのご紹介でこちらへ入られたと、たまたまマネージャーに伺ったものですから」  本当は秋子に会うことのほうが主な目的だったことを、夕子は心の底で感じている。 「よかったら、お茶でもごいっしょに……?」 「ええ、でも、遅くなりますので……」 「では、私の車で途中までお送りしてもよろしいかしら」  夕子の声には、どこか相手の心をゆったりさせるような響きがあった。 「あなたが、吉井さんの事件を調べていらっしゃる、検事さんなんですね」  そのことを、というより、心の中で何事かを確認するような眼差《まなざし》で、秋子はいっとき夕子を凝視した。複雑な葛藤《かつとう》が、秋子の知的な眸《め》の奥を通過したように見えた。 「そうですよ。——じゃあ、参りましょうか」  前の駐車場にパークしておいたパサートへ、夕子は秋子を導いて、助手席に乗らせた。 「西武線の駅がすぐ近くにありますから」 「新宿までお送りしますよ。私もどうせ通り道なんです」  環状8号線に戻《もど》る頃には、空はほとんど闇《やみ》の色に塗りこめられていた。樹林がいっそう黒々としたシルエットを描き出している。  しばらくは黙って車を進めた。口を開こうとした夕子は、秋子が頬《ほお》に溢《あふ》れ落ちた涙を、指先でそっと拭《ぬぐ》っているのを感じた。 「——いえ、吉井さんの車で送っていただいた時のことを、思い出してしまったものですから」  秋子のほうから、言い訳するようにいった。 「よくそんなことがあったのですか」 「いえ、全部で四回だけでしたけど」 「どんなお話をなさいましたの」 「そうですわね、やっぱりテニスのことと、それに、おとなになってしまってからは日常生活ではめったに話しあうこともないような、生甲斐《いきがい》とか、物事の価値についてなんか……」  秋子はまた涙を拭ったが、吉井との記憶を呼び戻されることが悲しみや苦痛ばかりではない心の動きを、夕子は注意深く感じとっていた。 「私が、愚痴を聞いてもらったこともありましたし」 「あら、何の愚痴ですか」 「それは、私だって家庭の主婦ですもの」 「申し分なくお幸せな主婦のようにお見受けしますけど」 「……」 「だって、あんなに素晴らしいご主人をお持ちなんですから。信用も実力もおありになる弁護士さんで、しかも温厚|篤実《とくじつ》な人格者でいらっしゃるという評判ですわ」 「そうですわね。ひとさまからは信用していただいているようです」  秋子はハンカチを畳むと、背筋をのばしてすわり直した。しばらくはまた黙りこんでいたが、やがて、複雑な感情とたたかうような、考え深い口調で話し出した。 「世間でいわれる人格者というのが、どんな意味なのか、私にはよくわかりませんけれど、本当は完全な人格者なんて、どこにもいないんじゃないでしょうか。というか、外目には完璧《かんぺき》に振る舞っていても、おそらくそれを続けるためにはなおさら、人間はその緊張のはけ口を、どこかに求めなければならないものでしょう」 「それは、おっしゃる通りでしょうね。だから、男の人ならお酒を飲んだり、カラオケで騒いだり、時には部下をどなりつけてみたり……」 「勿論《もちろん》そういう発散の仕方もあるわけですけど……性格的に、もっと別の方法をとらなければならないような人も……」 「別の方法って?」 「……」 「例えば?」と、夕子はちょっと笑いながら訊《き》いた。 「例えば……ある時にはすっかり自分が変ってしまうとか。つまり、ある特定の相手に対してだけは、極端に嫉妬《しつと》深くなって、暴力を振るったり、ほかの人には絶対に見せない、自分の奥底にひそんでいる歪《ゆが》んだ性格をすっかりさらけ出してしまわないことには……それで社会に対しては、人格者を保っていられるというような……」 「ずいぶん不幸な人ですわね」 「そうなんです。結局は、とても不幸な人だと思うんです」  秋子の声には、深い哀《かな》しみがこもっているように聞こえた。 「でも、もしそんな人がいるとしたら、それはむしろ二重人格者と呼ばれるほうがふさわしいんじゃないかしら」  秋子は夕子を振り向いて、しばらくその横顔を見守っていた。やがて、小さく溜息《ためいき》をついた。 「私、そろそろ降ろしていただきますわ。あとは電車で帰りますから」 「まだ青梅街道に出たばかりですよ」 「この先の、荻窪駅まででも」  夕子は気分を変えた明るい調子で尋ねた。 「吉井さんとは、テニスクラブでお会いになるだけでしたの?」 「ええ、今までは」 「……?」 「でも、今度の私の誕生日には、朝早く、多摩川のコートでテニスをして、それからドライブに行こうなんて、お約束していたんですけど」 「それは、もうじきでしたの?」 「十一月の第三土曜日なんですけど。残念ですわ、私たち、もっとたくさん時間がほしかったのに」  秋子は衝動的に泣きじゃくった。 「やっぱり新宿までお送りしましょうか」 「いいえ、大丈夫です」  秋子は急いでコンパクトを覗《のぞ》き、化粧を直した。 「私、どうして検事さんにこんなお喋《しやべ》りをしてしまったのかしら。たぶん、いろんな気持をわかっていただけそうな感じがしたからでしょうね。そういうムードを身につけてらっしゃるんですわ」  秋子は恥かしさを取り繕うようにいった。 「もっとお話を伺ってもかまいませんけど」 「いいえ、これ以上はしないほうがいいんです。ですから失礼しますわ」  これ以上夕子に食い下られることを、なんとしても振り払おうとする口調だった。  荻窪駅前で車を降りた秋子は、夕子に向かってていねいにお辞儀をした。それから、急に顔をそむけると、足早やに人波の中へ紛れていった。  夕子は一人で運転を続けた。土曜なのと、逆コースでもあり、車はなめらかに流れている。夕子は慎重なハンドルさばきだったが、頭の中では秋子のことばの一つ一つを反芻《はんすう》していた。  秋子は何かを訴えようとしていたのではないだろうか。吉井と彼女との微妙な触れあい、そしておそらく、栃之木の人間性についての、何か重大な問題——。  すると夕子は、自分がなぜテニスクラブまで出向いて、できれば秋子に会ってみたいと考えたのか、その理由に思いが戻った。栃之木が地検へ来た時、帰りかけた彼はふと思い出したような口吻《くちぶり》で、妻が下井草のクラブのコーチをしていると付け加えた。だが、その少し前には、吉井がクラブのメンバーだったことを夕子にいわれて、「そんな話も聞いていました」と答えた。秋子は吉井の紹介でコーチをつとめるようになったというのに——。  彼の本心は、夕子の注意を秋子に向けさせたくなかったのではないか。が、もしあとで秋子がコーチをしていることを知った場合には、彼がそれを告げなかったことに不審を抱きはしないかと思い直して、いい添えたのではなかっただろうか……?  新宿の雑踏を抜けて、靖国《やすくに》通りへ入った。市谷《いちがや》から外堀通りへ。白山《はくさん》通りを進み、向丘一丁目の五叉路《ごさろ》を右へ曲っていくと、やがて団子坂にかかる。  夕子の車は団子坂を下って、谷中《やなか》の町並へ入っていった。狭い道路に沿って、たくさんの寺と、その墓地が続いている。角を曲って、下町の露地裏とでもいったいっそう狭い道に入ると、軒下に盆栽や縁台を出した木造の家々が並んでいる。  またしばらく、お寺ばかり集っている区域を走った。路上はひっそりとして、早くも人影が途絶えている。崖下《がけした》に墓地のある道をしばらく行って、ちょっと離れて一つ建っている小さな寺の門にかかると、夕子の車はいちだんと速度を落とした。  山門をくぐって、境内《けいだい》へ乗り入れた。  本堂は闇に包まれていたが、左手の奥の庫裡《くり》には、ほんのりと灯《あか》りが点《とも》っている。  植込みと井戸のある横に、小型車が一台|駐《と》まっていて、隣にギリギリもう一台分のスペースがあいていた。夕子はそこへきっちりと車を納めた。  鞄《かばん》をさげて、外へ出ると、晩秋の夜気が思いのほか冷えこんでいる。線香と焚《た》き火の煙がとけこんだような、寺独特の匂《にお》いが、空気の底にしみている。それを嗅《か》いだ夕子の表情が、はじめてほっとくつろいだ。  彼女は、この古い寺の家付き娘で、今は婿《むこ》養子の夫が住職をつとめているのである。  まるまると肥え、ひどく世俗的でいて、どこか茫洋《ぼうよう》とした夫の顔を脳裡《のうり》に浮かべ、あの人は何に「緊張のはけ口」を求めているのだろうかと、夕子はふと考えてみた。    8  沢野の勾留《こうりゆう》期限をあと三日後に控えた十一月二日の朝、地検の夕子のデスクで電話が鳴った。夕子が取ると、東愛宕署の刑事課長の早口な声が流れてきた。 「検事さん、実は吉井の奥さんから昨夜電話がありましてね。例のメモが見つかったのですよ」 「例の……ああ、沢野が吉井さんに和解の条件を示して、吉井さんがそれをメモしたという……」 「そう、それです」 「どこにあったのですか」 「テニスクラブのロッカーの中に。吉井さんが借りていたロッカーは、事件後もそのままになっていたらしいんですが、奥さんが昨日の夕方それを解約しに行ったのだそうです。すると、中にカッターシャツが一枚掛っていて、そのポケットに入っていたということです。吉井さんはよく、テニスウエアに着替えたままで家に帰ってきたそうですが。こちらもさっそく捜査員を差し向けて、それを預かって来たわけなんですが——」  問題のメモについては、SYシステムの社長室や吉井の自宅の書斎などを丹念に捜索した模様だったが、テニスクラブまでは思い至らなかったのだろう。自分もあそこまで行っていながら……と、夕子は唇《くちびる》をかんだ。 「メモは、SYシステムの用箋《ようせん》一枚に、ボールペンで走り書きされてましたが、被害者の筆跡にまちがいありません」 「内容は?」 「ソフト一|箇《こ》につき、三パーセントのロイヤリティを支払うことと、発売後一箇月間はレンタルを控えること。この二項目が書いてありました。一応、沢野の供述と一致するわけですが」 「すると——」  被疑者の容疑が多少薄らいだ形勢になる……と夕子が考えた時、 「ところがですね、今一つ有力な手掛りを掴《つか》んだのですよ」  刑事課長が畳みかけるようにいった。 「事件当日の午後、吉井さんはひそかに自分で沢野のレンタルショップへ出向いていたらしいのです。SYシステムが発売したばかりの新製品を、早くも沢野たちがコピーし、しかもあとで言い逃れがきくように、一部|改竄《かいざん》して貸していることを発見して、そのカセットを借り出してきたんですね。事件後に吉井さんの写真がテレビや新聞に出たため、店員が気が付いたんだが、沢野に口止めされていたんです。うちの捜査員が、昨夜ついにそのことを聞き出したわけですよ」  沢野の逮捕時には、強力な証拠に乏しかったため、所轄《しよかつ》署ではその後も熱心に補充捜査を続けていた。 「ですから、事件当日の夜には、吉井さんがその件で沢野を会社へ呼び、口論の末、沢野が犯行に及んだ疑いは、これでいっそう濃厚になったわけです」 「その改竄されたカセットも見つかっているのですか」 「社長室の戸棚《とだな》の中にしまってありました。SYシステムの製品のケースに入れてあったのと、ほかの自社製品と重ねて置いてあったために、今まであまり注意していなかったのですが」 「指紋は?」 「いや、それなんですがね」  彼ははじめてちょっと渋い声を出した。 「指紋はいくつか採取されたんですが、沢野のものはないのです。吉井さんと、沢野のところの店員の指紋、そのほかにも鮮明なものが検出されているのですが、誰《だれ》の指紋なのか、まだ判明していません。おそらく沢野は、最初から殺意を抱いていたので、カセットには一度も手を触れなかったのでしょうな」  夕子は、新事実をいっさい外部には伏せておくようにと、ややきつく告げた。  その日、例によって夕方までほかの事件の取調べに当っていた夕子は、五時すぎにそれを打ち切ると、珍しく桜木に、今日はもう帰ってもいいといった。  夕子も間もなく地検を出て、タクシーを拾った。  西新橋のSYシステムのビルの前で降りた。  そこの通用口から、あらかじめ調べておいた栃之木の事務所のあるビルまで、裏通りを選んで、急ぎ足で歩いた。小柄《こがら》な夕子の足でも、六分しかかからなかった。  栃之木の事務所が二階にあるビルは、クリーム色の化粧タイルが黒ずんだ五階建である。その前に来て、外観を眺《なが》めた夕子は、向かって左側の、隣のビルとの隙間《すきま》に、螺旋《らせん》階段が取りつけられているのを見つけた。それに向かって各階の非常出口が設けられている。細い階段は、近くにある広告塔のライトを受けて、前面は白っぽく光り、背後は暗がりの中に沈んでいた。夕子はしばらくの間|佇《たたず》んで、それを見あげていた。  やがて、ロビーの奥の階段から、二階へ上った。〈栃之木寛法律事務所〉と磨《す》りガラスに記されているドアをノックすると、二十歳《はたち》すぎくらいの女子事務員が姿を見せた。 「地検の霞ですけど、先生はおいでになりますかしら」 「あら……」  稚《おさな》い顔立ちの事務員が、ちょっと息をのんで夕子を凝視《みつ》めた。 「女性キャップの霞検事……?」  思わず呟《つぶや》いた様子では、夕子の噂《うわさ》を栃之木からでも聞いていたらしい。 「ええ」 「あいにく弁護士は外出しておりまして、帰りは七時すぎになるということですけど」 「じゃあ、それまで待たせていただけます?」 「はい、どうぞ」  彼女は夕子を、ひっそりとした事務室の突き当りにあった応接室へ案内した。事務室の左手にも別のドアが見えている。 「あちらが栃之木先生のお部屋ですか」 「そうです」 「この事務所には、先生とあなただけ?」 「いえ、去年研修所を出られた若い先生がいらっしゃるんですが、今はお休みをとっておられます」 「あら、それではあなたが忙しいわね」 「ええ、ちょっと」と、彼女は微笑した。 「郷里《くに》へ帰られて……間もなく出てらっしゃると思うんですけど」  夕子もまた、何気なく口に出すふうに訊《き》いた。 「いつ頃《ごろ》から休んでらっしゃるの」 「十月九日の連休からだったと思います」  女子事務員は、いったんひっこんで、お茶を運んできた。 「栃之木先生は、大変よくできた方だから、あなたも働きやすいんじゃありません?」 「ええ、ほんとに」  彼女の微笑がいっそう明るくなった。 「いつも、私にまで気を使ってくださいます」 「それじゃあ、奥さまに対しても、さぞお優しいんでしょうねぇ」 「理想的なご主人なんじゃないでしょうか。それにすごく奥さまを愛してらっしゃるみたい。ちょっと奥さまのお噂をしただけで、愉《たの》しそうに見えますし、お誕生日の前になると、つとめて早くお帰りになるくらいですもの」 「まあ。——でも、それは去年のお誕生日の話?」 「いいえ。確か、十月の五日だとおっしゃってましたわ」  夕子は少しの間口をつぐんだ。誕生日が一年に二回ある人がいるはずはないし、本人がまちがえるとも考えにくい。とすれば、栃之木が一種の特異な心理から、出まかせを喋《しやべ》ったものだろうか——? 「それはそうと、吉井さんの事件の日のことなんですけどね、この間先生と沢野のアリバイの話をしていた時、夜の七時から八時の間くらいに、沢野からここへ電話が掛ってきたような気がするとおっしゃるの。でも、先生もはっきりした記憶がおありにならないらしくて……あなた、憶《おぼ》えていらっしゃらない?」 「あれは十月十四日の金曜ですね」  女子事務員は目をこらして、しばらく黙っていた。 「いえ……掛ってこなかったと思います」  やがて、彼女ははっきりと首を横に振った。 「先生は、お部屋でお仕事をしていらしたそうですね」 「そうなんです、私はずっと、ワープロで書類を作っていましたけど」  夕子はつと立って、事務室へ出た。女子事務員のデスクの左手奥に栃之木の部屋のドアがあるが、それが閉まっていれば、室内は見えなかった。反対側の壁寄りに、ワープロらしい機械が置かれていた。 「何時頃まで?」 「あの日は急ぎの書類がたくさんあったんです。それが三時間くらいかかって……確か八時すぎ頃、先生がお部屋を出てらして、それでごいっしょに帰ったのだと思います」 「そこのドアから?」  夕子がさっき入ってきたドアを指さして訊いたので、相手は奇妙な顔をした。 「だって、このビルには、もう一つ出入口があるでしょ。螺旋階段のついた……」 「ああ、でもあれは、ふだん使っていません」  彼女は笑った顔を、栃之木の部屋のドアに向けた。夕子は軽い好奇心に駆られた様子でそれを開け、大きなデスクの斜め向うの隅《すみ》にある非常口のドアに目を注いだ。 「あれですね」と呟きながら、歩み寄って、ひょいと錠を外し、そのドアを開けた。 「なるほどねぇ。——どうやら今日は先生のお帰りが遅いようですから、また出直すことにしますわ。先生によろしくお伝えくださいね」  女子事務員が呆気《あつけ》にとられているうちに、夕子はドアの外へ姿を消した。軽快な靴音《くつおと》が螺旋階段を伝って、遠ざかっていった。    9  祭日を挟《はさ》んだ翌々日の金曜日、午後七時に、夕子はSYシステムの社長室へやってきた。その部屋は、事件後警察の検証や捜索が行われて、またおよそ以前の通りの状態に戻《もど》されている。会社も業務を続けているが、今後の経営がどんなふうになるかなどは、はっきり決まっていないらしかった。  ほかの部屋には社員がまだ二、三人居残っているようだが、細長いビルの内部は、全体にひっそりとなりかけている。  手配しておいた通りの準備ができると、夕子は吉井のデスクの後ろのカーテンを開け放った。新橋から銀座にかけての、きらびやかな灯火の海を、しばらくは息をひそめるようにして眺めていた。  落着いた靴音が、廊下を伝ってきて、ドアの外で止まった。ノックが聞こえた。 「はい、どうぞ」  ドアが開くと、濃紺のダブルの下にきっちりとネクタイを締めた栃之木弁護士が姿を現わした。 「ああ、先生、申しわけございません、たびたびご足労いただきまして」 「いや、こちらこそ、一昨日はわざわざ検事さんがおいでくださったのに、留守をしていて失礼しました」  彼はいつもの柔和な表情で会釈《えしやく》を返した。 「まあ、どうぞお掛けください」  夕子はソファをすすめ、自分は斜め前に腰をおろした。それは吉井の死体が凭《もた》れていたのではないほうの椅子《いす》だった。  ソファに掛けた栃之木の視線は、自然と、正面にある無人の椅子へ注がれたが、彼はゆっくりと一回|瞬《まばた》きしただけで、その目を夕子へ移した。 「ご承知の通り、明日で沢野の勾留《こうりゆう》期限が切れるわけです。私としては、あと十日の勾留延長を請求するつもりですけれど、それにしても、被疑者が頑強《がんきよう》に犯行を認めないのには、いささか手を焼いているんです」  夕子はざっくばらんな調子で語りかけた。 「先生には、どんなふうに話しているんでしょう?」  栃之木は沢野の弁護士なので、何度か警察署を訪れて、代用監獄に収監されている沢野に面会していた。 「むろん、身に覚えのないことだと主張し続けておりますよ」 「でも、その後の捜査でも、ほかの容疑者はまったく浮かんできません。やはり真犯人は沢野以外には考えられませんわね」 「本人は、自分には吉井さんを殺すほどのさし迫った動機はなかったと申し立てていますがね。十月十一日に再度吉井さんを訪れて、和解条件を提示した。彼はそれで一応納得した様子を見せ、こちらの条件を会社の用箋《ようせん》にメモして、考えておこうと答えたというのですよ」 「しかし、肝腎《かんじん》のメモが見つからないのですから」  それがテニスクラブのロッカーの中から出てきたことなど、その後に浮かんだ新事実は、まだ外部に伏せてあった。 「さりとて、沢野がまったくの作り話をしているとも、わたしには考えられないのですがね」  栃之木はあくまで穏やかに応酬した。 「警察が本腰をいれて、なんとかそのメモを見つけ出してもらいたいものです」 「それは私だって同感ですわ。なにがなんでも被疑者を起訴することが、検察の本意ではないのですから。——いえ、さっき電話で、ここへおいでくださるようにお願いしましたのは、その問題もあったからですの。私としても、なるべくフェアな方法をとりたいと思いまして」 「……?」 「日頃の吉井さんの習慣からしても、メモが本当に存在するとしたら、やはりこの部屋以外にはないという結論に達しましてね。勿論《もちろん》ここはすでに警察が捜索したのですが、刑事さんだって人間ですから、どんな見落としをしないとも限りません。その点、長年顧問弁護士をつとめていらした先生に、念のためもう一度捜していただいたら、警察の盲点をついて、案外簡単に見つけ出せるんじゃないかと考えましたの」 「しかしねぇ、すでに警察が捜索したものなら、わたしにしたところで……」  栃之木は苦笑しながら、室内を見回した。 「先生にも発見できなければ、これはもう、そんなメモは実在しないと、断定してさしつかえないでしょう。すると沢野の供述は偽りであり、従って彼の容疑は——」  その時、再びノックがあった。  ドアを細く開けて、その間から顔を覗《のぞ》かせたのは、桜木洋事務官だった。 「お話中すみませんが、検事さんに電話が……」 「電話?」  夕子はうるさそうに眉《まゆ》をしかめた。 「どこから?」 「東愛宕署から、至急にお耳に入れたいことがあるというんです」 「ちょっと失礼します」  栃之木にことわって、夕子は椅子を立った。廊下へ出ると、ドアをすっかり閉める間《ま》ももどかしげに尋ねた。 「何かあったの?」 「沢野が、コピーを一部|改竄《かいざん》していたことを洩《も》らしたらしいんですよ。そのカセットを吉井さんに押さえられて……」 「新しい動機が浮かんだわけね」  栃之木は耳をそばだてていた。  二人の足音が廊下を遠ざかると、彼はゆっくりと腰をあげた。それはあたかも、検事に頼まれた通り、室内を捜してみようかとでもいった動作に見えたが、彼の目はしだいに異常な緊張を帯びて、応接セットの後ろにある棚《たな》へ注がれた。あの日、吉井は確かに、発売直後の新製品を沢野が改竄して、それを貸し出しているといって憤激していた。その事実が、弁護士の自分からではなく、被疑者の口から捜査側へ漏洩《ろうえい》したというのは、まことに望ましい成り行きなのだ。しかし——?  彼は突然、頭の中で非常ベルが鳴り出したような感覚に捉《とら》えられた。自分が何か重大なことをし忘れていて、しかもそれが一刻を争う危険を孕《はら》んでいるような……。  彼の視線が、棚から、その下の戸棚へと移された。戸は両側に開かれていた。どうぞ捜してくださいとでもいわんばかりに。  戸棚の中には、書類やパンフレット、その上に、ケースに入ったカセットがいくつか、雑然と押しこまれていた。あの日と同じだ。そして、あの時吉井が置いたのと同じ場所に、〈時計塔殺人事件〉のケースが残されていた。  栃之木の手が、それを取りあげた。ケースを開けると、中には〈時計台殺人事件〉という手書きのラベルを貼《は》られたカセットが納まっていた。すべてがあの日のままだ。そして自分は、それを拭くのを忘れた!  彼はポケットからハンカチを出し、カセットの表面をこすり始めた。大急ぎで、だがていねいに、隅々まで——。  つぎにはケースを拭《ふ》くために、カセットを棚に置きかけた時、霞夕子がふいに後ろから歩み寄った。部屋のドアはさっきから細く開いたままになっていたので、ノブをひねる音もしなかった。 「先生ほどの方でも、それを拭きたいという誘惑には勝てなかったようですね」  夕子は静かな、よく通る声で話しかけた。 「そこに付いていた指紋は、とうに警察に保存されていますわ。ただ先生が、どこか別の場所で付けたものだと、言い逃れをなさるおそれがあったものですから」 「なに? わたしが何をしたというんですか」  栃之木は、夕子の側からでは陰になっている右手のハンカチをポケットに戻しながら、精一杯の怪訝《けげん》そうな声で問い返した。 「だめですわ、先生、とぼけようとなさっても。さっき先生がこの部屋へ入ってこられて以後の行動は、全部ビデオカメラで撮影されているのです。ほら、あそこに」  夕子は出窓の隅を指さした。数冊の本が立てかけてある間に、大きなピストルみたいな形をしたごく小型のビデオカメラがセットされ、レンズは、栃之木の掛けていたソファから戸棚のあたりを狙《ねら》っていた。 「先日、十月二十八日の午後、検察庁へお越し願った折、先生は、吉井さんの会社へはここ三箇月行ってないといわれました。一方、そのカセットは、吉井さんが事件の日の午後、沢野の店で借りてきたものです。それなのに、なぜそこから先生の指紋が検出されたのでしょう? いえ、そこに付いていた指紋はとうに警察に保存してあると申しましたでしょ。それらと先生の指紋とを、並べてお目にかけてもいいんですよ。では、その指紋はいつ付いたのか? もし、犯行以前に別の場所で付着したことを、先生が詳《つまび》らかに立証できるならば、今あわててご自分の指紋を拭きとったりなさるはずはありませんわね」  栃之木は、もうことばを返さなかった。ただ、鼈甲《べつこう》縁の眼鏡の奥で両眼を見張り、それがどこまでも膨張していくような、奇異な表情を浮かべた。 「それにしても、先生はどうして、常軌を逸して奥さまに嫉妬《しつと》深いのですか。それほど奥さまを愛していらしたんでしょうか」 「いや、たぶん……」  やがて彼は、かすれた声で呟《つぶや》き、力なく首を横に振った。その両眼は、いつの間にか哀《かな》しげに細められていた。 「たぶん、愛情とは関係のないことなんでしょうな。ただ、人間には、どうしようもない性癖のようなものがあってね。理屈に合わないとわかっていながら、自分ではどうにも抑えることのできない……」 「それは誰《だれ》にだってありますわ」  夕子は、不思議にのどかな響きの声でいった。 「いくらコンピュータの発達した時代でもね。その理屈に合わないものとどうやって付き合っていくか、誰だって苦労しているのですもの」  白い影    1  新興宗教|宏神《こうしん》会・東京支部の大講堂で月例祭が終ったのは、十月八日月曜の夜九時を回る頃《ころ》だった。  港区芝公園の一画を占める東京支部は、一万平方メートルの敷地内に、チョコレートブラウンに鮮やかな朱色の化粧タイルを鏤《ちり》ばめた三つの尖塔《せんとう》を含む五階建ビルと、それに隣接した、優雅な抛物線《ほうぶつせん》の青瓦《あおがわら》屋根と白壁の大講堂とによって構成されている。大講堂は、大阪府|箕面《みのお》にある大本部の神殿を模したものだという。  それにしても、遠くからではラブホテルとまちがわれかねない奇抜なアラビア風デザインのビルと、昔ながらの純日本式神社風建造物とのドッキングは、この新興教団の、あれこれこきまぜた伝統と姿勢を物語るようでもある。  今、その建物全体がほの白いライトに照らされ、いちばん高い尖塔の正面にある、菊の紋章に似たものの周囲にモダンな白金の模様を施した教団のシンボルマークが、夜目にも燦然《さんぜん》と浮かび出ている。  正面の大扉《おおとびら》が開放され、信者や職員たちが両側につめかけて居並ぶ中、六十歳代とみえる黒背広の小柄《こがら》な男と、少し遅れて、目のさめるようなワインレッドのドレスを着た豊満な中年女性とが現われた。黒塗りのロールスロイスが駐《と》まっている場所まで、男がほんの数メートル歩く間にも、「教主さま」「もったいない」「かみなずみ」といった呟《つぶや》きと吐息が口々に洩《も》れ、人々は手を合わせたり、いよいよ深く低頭した。鼻の下に髭《ひげ》を貯《たくわ》えた小柄な男は、教団の二代目教主天沼|道暢《みちのぶ》なのである。  ロールスロイスの開かれたドアの前で、天沼は立ち止まって、後ろを顧みた。にこやかな笑みをふりまいている参議院議員の柏木《かしわぎ》美輪が歩み寄るのを待ち、先に乗るようにと、片手でシートを示した。天沼の妙にデコボコした小さな顔にも柔和な微笑が浮かび、たとえ教主でもレディ・ファーストは身についた習慣だとでもいっているように見えた。  柏木美輪が、人々に向かってもう一回ていねいにお辞儀をして、車へ入ると、天沼は後ろに立っていた三十すぎの秘書が耳元で何事か囁《ささや》くのに頷《うなず》いてから、自分もゆっくりとシートにおさまった。  車が走り出し、人々の列が見送っている間、二人はすっきりと背筋をのばして、晴れやかな横顔を並べていた。美輪は今日の祭典で、例によって宏神会と天沼教主をもちあげる演説を、身についた調子で賑々《にぎにぎ》しく行った。教主と教団推薦議員の仲はいつもながら呼吸が合って、信者たちの目にはいかにも和やかに映ったはずである。  が、車が東京タワーの脚元のほの暗い道路にさしかかる頃から、二人とも疲労の浮き出した興ざめたような顔を別々の窓へ向け、しばらくは口もきかずに、流れすぎる灯火に目をあずけていた。 「今日は、何人くらい集っていたんでしょうか」  気《き》不味《まず》い沈黙をともかくも破ろうとするように、美輪がシートにすわり直して口を開いた。 「二万人ほどは来てたのかしら」 「いや、それではきかんだろう。二万五千を越えていたかもしれんな。広場にも入りきれん人たちが外に立っていたのだから」 「月例祭もますます盛大になって、大講堂が狭いくらいになりましたわね」 「立教四十周年の昭和六十三年までには、大々的な増改築をせねばと思っている」  四十年代の初期に建てられたその大講堂は、最初から収容人員が三千人なのだから、いくら信者が多数詰めかけたといっても、何万ものオーダーに及ぶはずはないのである。そんなことは二人とも承知の上で口に出している。もともとこうした教団では、公称の信者数が実数の四倍から六倍というのが通例で、宏神会でも信者は全国に三百万人と呼号しているが、実際は八十万人弱が固いところ。日頃の集会などの人数も数倍に水増して公表されるので、おのずとその感覚で勘定しているのだった。  新興とはいえ、宏神会は戦後間もなく、天沼の父が教祖となってつくり出した教団である。宗教学的には諸教の中に分類され、教団側も、仏教系でも神道《しんとう》系でもなく「おのずと興ったもの」と説明しているが、どちらかといえば神道系の色彩が強いだろう。  もともとは初代教祖が、「かみなずみ」と称《とな》えればどんな病いも治り、貧、病、争、すべての悩みから救われると説いて、箕面に教会を建て、大阪周辺で中型教団にまで育てあげた。彼の死後、三十年代の初めに、息子である現在の教主が引き継いで以来、卓越した組織力と政治力を発揮してたちまち関東一円にまで進出し、全国に名を知られる大教団に成長させたのである。  急激に信者数を増加させた大きな要因の一つは、従来の素朴《そぼく》なご利益《りやく》信仰に、天沼が思いきってモダンなムードと、知的な宗教哲学的理念を採り入れて、都会のインテリや若年層の心を捉《とら》えたことだといわれている。しかしながら、実際にはまだかなり心霊治療的な要素も残っているし、現在定められている教義にしても、「人はすべて神の子。教祖さまが、神の世界と人の世界を繋《つな》ぐ教えの道をひらかれた。その教えに導かれ、人は物心両面の豊かな福祉の中で生きるべきもの」というような、やはり至って単純素朴な内容なのであった。  ともあれ、教団の教義が人間の福祉であるから、お抱え議員である柏木美輪の公約も、「児童福祉・老人福祉・生涯《しようがい》福祉」と、もっぱら福祉|一本槍《いつぽんやり》で押しまくっていた。  演説の口調やゼスチュアは板についてきたものの、話の内容はいつ聞いても、最初にこちらが教育してやったことを適当に表現を変えて喋《しやべ》っているだけじゃないか——。  天沼道暢は、うすいシミの浮き始めた美輪の横顔へ、独特のくせの強い横目を投げた。  もともと彼女には、身近に強力なブレインを育てるほどの器量もないのだし。ところが本人は、参議院の二期目に入る頃から、現在の地位はみんな自分の力で築き上げたような錯覚を抱き始め、何かと身勝手で可愛《かわい》げのない行動が目につくようになった。  まあ、可愛げなどという齢《とし》でもないが——。  天沼はなかば憐《あわ》れむような瞬《まばた》きをして、その目をまた反対側の窓へ移した。  与党である国民党の要請を受けた天沼が、とうに盛りをすぎた美人女優の柏木美輪に白羽の矢を立て、教団推薦のタレント議員として参議院に送り出したのは、今からもう十年前で、その時すでに彼女は三十九歳になっていた。  当時はむろん比例代表制ではなく、タレント議員は与党の浮動票対策だった。従って、人選にはまず、時の有名人、話題の人を並べ挙げ、有権者間で人気投票をしたら誰《だれ》が出てくるだろうかといった発想から始まる。党側で希望する顔ぶれが決まると、つぎには本人に打診し、やる気を起こさせなければならない。  立候補を勧める説得には、しばしば「歌手は一年、議員は六年」といったことばが使われた。歌がひとつヒットして、パッと人気が出ても、それが翌年まで持続する歌手は十人に一人もいない。その点、参議院議員に当選すれば、任期は六年もある。おまけに、一期の半分の三年たつと政務次官にすることを、党は候補者に約束した。必ずそのポストを与えるという条件つきで立候補を承諾させるので、タレント議員のほとんどが、一期の後半でどこかの省庁の政務次官をつとめている。大抵は環境庁や科学技術庁など、当り障りのないところで、いわゆる一級省庁の次官ではなかったが。  ともあれそれで本人がやる気になったとしても、昨日まで歌や芝居や司会者などをやっていたタレントたちが、自分自身の政治的主張を持っていることはめったにない。これも党内の担当者が、政策委員会が毎年発行する「政策集」などの中から適当なものを抜き出し、教育、福祉、環境問題、物価対策等々、本人に合いそうな、また好みの項目を選ばせて、それを選挙のさいの公約として打ち出させるのである。  そこまでお膳立《ぜんだ》てができると、与党支持の企業の中から、支援グループになる企業を一つ候補者につけてやって、当選後もそこが物心両面で何かと面倒をみるようになる。女性議員なら、デパート、化粧品、ファッション産業などが多かった。  これが宗教団体がバックになる場合には、当然、党と教団との話合いで、その教団の信者数から推して、何人候補者を立てられるかを決め、それから人選に移る。ほとんどが信者の中から選ばれるが、まれには、教団推薦が決まるのと前後して、候補者が信者になる。美輪の時もそうだった。  もともと神戸《こうべ》出身の彼女は、十年前天沼と個人的な付合いはあったが、宏神会の信者というわけではなかった。ところが天沼が立候補の件をほのめかしてみると、彼女はたちまち乗り気を示した。四十歳を目前にして、映画女優としては先が見えてきたことを自覚していたのであろう。そこで天沼はさっそく彼女を入信させ、教団の会議では、ワンマンの彼が一方的に彼女を推薦候補にすることを決めてしまったのだ。  因《ちな》みに、宗教団体が信者の中から議員を出す目的は、教団の主義主張を政治に反映させ、その理想を実現させるために、自分たちの代表を国会へ送るのだというふうにいわれている。宏神会でもそういった建前を標榜《ひようぼう》しているわけだが、実際は多分に教団の宣伝のためであり、それにふさわしい候補者を天沼がほとんど独断で選ぶのが常だった。外部では、宏神会の推薦候補は教主の政治道楽のおもちゃだと、陰口を叩《たた》く者さえある。  美輪に立候補を勧め、彼女が議員になりたての頃まで、天沼は彼女と何回か関係を持った。しかし、間もなくそのほうでは彼女に興味を失《な》くしてしまった。  見かけ通りの大味な女だった。が、タレント議員としてはまず期待以上の出来で、厚生政務次官もどうにか大過なくつとめ、教団のイメージアップにも寄与してきた。まあそれも、今期くらいまでがいいところだろうが——。  第一京浜をゆるやかな速度で走り続けたロールスロイスは、泉岳寺の前を通過して右へ曲った。ホテルやマンションが林立し始めたこの区域で、まだ昔ながらの屋敷町の雰囲気《ふんいき》を留《とど》めているほの暗い坂道をのぼっていくと、やがて右手に、黒っぽい石を縞《しま》模様のように積みあげた、ひときわ高い塀《へい》が姿を現わす。内部はほとんどその塀に隠されているが、大講堂に似た青瓦屋根の頂上に突き立った菊の紋章風シンボルマークだけは、ここでもほの白いライトに照らされて坂の下からでも見えるようにできていた。  宏神会・明鏡殿の正門の扉は、教主の帰りを待って両側に押し開かれている。  車が速度を落として門内へ滑りこむ時、美輪はバッグを手許《てもと》にひき寄せながら、さりげなく天沼を振り向いた。 「教主さまが一休みなさった頃、ちょっとお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか」 「……」 「今夜はもうとりたててお客さまもないと、秘書の方がいっておられましたし、私、ちょっと折入ってお話が……」  天沼は腕時計を透かし見るようにして、一呼吸遅れた感じで口を開いた。 「いや、明日は八時にここを出なければならん。あんたも今日はだいぶ疲れた様子だから、早めに寝《やす》みなさい」  出っ張った額の下にある窪《くぼ》んだ鋭い目を、最後に美輪の顔へ投げた。「折入った話」はおよそ見当がついていた。    2  高輪《たかなわ》三丁目にある明鏡殿と呼ばれる建物は、会社でいえば役員寮に近いものだった。黒い石塀の内部には、教主とその一族が東京へ出てきた時に滞在する屋敷と、青瓦《あおがわら》屋根、白壁の拝殿、それに教団幹部や近しい関係者を泊めるための客殿と称する洋風の宿舎などが、西から順に並んでいた。  拝殿は、大阪大本部の神殿や東京支部大講堂のミニチュアである。宏神会のご神体とされる教祖直筆の「かみなずみ」と書かれた掛け軸と、二、三の宝物が納められているだけで、実際にはほとんど使われていなかった。  母屋《おもや》と離れのある屋敷には、今夜は天沼と、長男で一応教主の跡取りと目されている天沼|光教《みつのり》が泊ることになっていたが、光教はまだ戻《もど》っていなかった。月例祭のあとは、どうせまた青年部のとりまきを従えて銀座のクラブへでもくり出しているのだが、そこが看板になれば十一時半|頃《ごろ》帰ってくるだろうと、天沼は考えた。  食事は東京支部ですませてきたので、天沼は風呂《ふろ》を浴び、使用人の女性にいつもの一|揃《そろ》えを運ばせて退《さが》らせた。会津塗りの大きな盆の上に、ロイヤルゼリーとすっぽんのエキス、高麗人参《こうらいにんじん》に各種ビタミン剤等々の健康食品と、ブランデーのセットが並べられている。教主の居室は、広縁のある十畳の座敷と、四畳半の次の間、東側に洋風の寝室とバスルームが付いて、ほかの家族や使用人の寝起きする母屋とは長廊下で繋がる離れになっていた。  和服にくつろいだ天沼は、床《とこ》の間《ま》を背にした座椅子《ざいす》にもたれ、健康食品を順に全部服用した。健康管理は「かみなずみ」だけではすまないのである。つぎには、自分でブランデーの水割りを拵《こしら》えた。それらは四畳半のキャビネットの中に、常時用意されているものだ。  広縁のガラス戸の外では、手入れの行き届いた植込みに石灯籠《いしどうろう》の灯《あか》りが落ち、虫の声が聞こえる。十月に入ってにわかに秋の気配が濃く感じられるが、まだ暖房を入れるほどではない、ちょうど好《い》い気候だろう。  彼はブランデーを二口三口味わってから、違い棚《だな》の時計に目をやった。十時四十分を指していた。  彼は腰をあげ、座敷の片隅《かたすみ》の小机に二つ並んでいるプッシュフォンへ歩み寄った。六十六歳になっても抜群の記憶力が衰えていない彼は、必要なナンバーを大抵暗記していた。  直接外へ通じる電話で、七|桁《けた》の数字を押すと、間もなく先方の受話器が取られ、リズミカルに弾《はず》むような女の声が応《こた》えた。 「もしもし、大賀でございます」 「ああ、八千代君かね」 「あ、教主さま。——今日はまことにおめでとう存じました。いつもながら盛大な月例祭が滞《とどこお》りなく挙行されまして……私も五時近くまで大講堂に伺っておりましたのですが、六時からは日比谷《ひびや》野外音楽堂でコンサートがあったものですから、やむをえず途中で……」 「いや、それはわかっている」  天沼は部厚い唇《くちびる》から鷹揚《おうよう》そうな優しい声を出した。大賀八千代は三十四歳で、昨年あたりからめきめき人気を上げてきたシンガー・ソングライターだが、二十歳代の初めから宏神会の信者だった。 「コンサートはどうだったかね?」 「はい、お蔭《かげ》さまをもちまして、チケットは発売後二、三日で売り切れておりましたし、会場のほうもむろん超満員、すばらしい反響でございました。私は打ちあげの席から十時すぎにはこちらへ戻っておりましたけれど」  こちら、とは、独身の八千代が両親と離れて一人で暮している池田山のマンションのことである。 「では、そうだな、十二時半頃ここへ着くようにしなさい」 「十二時半、でございますね」 「うむ。わたしはそれまで一眠りするが、木戸は開けておいたから」  母屋へ通じる長廊下の横に、庭に出入りできる木戸が付いている。もう何回か、深夜に教主を訪ねたことのある八千代は、再び声を弾ませて答えた。 「はい、わかりました。必ず参上いたします」 「ああ、気をつけて来なさい」  受話器を置いた天沼は、もとの座椅子へ戻り、静かな庭へ目をやりながら、ブランデーのグラスを手にとった。それを口に運びかけた時、座敷の出入口に何かの気配を感じ、驚いて振り向いた。次の間との境の、開いたままの襖《ふすま》の横に、柏木美輪がすわって、両手を軽く前についていた。さっきとはちがう花柄《はながら》のワンピースに着替え、化粧も念入りにし直して来たようだ。 「教主さま、今夜はおことば通り、早めに床についたのですけれど、妙に頭が冴《さ》えて眠れませんの。なるべく睡眠薬を飲まないようにしておりますので、しばらくお庭を散歩してみようかと思って外へ出ましたら、教主さまのお離れにも灯りが見えますし、縁先からお声も聞こえたものですから、ちょっとお寄りさせていただきました」  口許《くちもと》の笑みが白々しく、喋《しやべ》り方もどこか切口上になっている。勝手に木戸を開けて入ってきたところでこちらの電話を立ち聞きしたのではないかと思うと、天沼はムッとしたが、また多少の弱みも否《いな》めなかった。 「失礼してもよろしいでしょうか」  彼が黙っているうちに、美輪は会釈《えしやく》して、テーブルを挟《はさ》んだ差向かいに正座した。 「——こんな機会はめったにございませんので、やはりどうしてもお話をさせていただきたくて……」  美輪は黒々とした勝気そうな眸《め》をひたと教主に注いだ。演説で鍛えられた歯切れのいい早口で喋り出した。 「来月十五日に大本部で行われます教団の政治部会には、むろん私も出席させていただくわけでございましょうね。いえ、ちょうど同じ頃に与党の女性議員だけの研修会を箱根で開こうという計画が持ち上っておりますが、文教委員の私が幹事役ですから、日取りはどうにでも調整できます。先日そのことをちょっと教主さまのお耳に入れました時にも、べつだんなんにもおっしゃいませんでしたので、政治部会のほうが延びたのかと思っておりましたが、今日聞けばそんな様子でもございませんし……」  彼女の紅《あか》い唇と白い大きな歯が休みなく動くさまを見ていると、天沼には時々それだけが何か特殊な生きものみたいに感じられてくる。 「十一月の政治部会では、つぎの参院選の教団推薦候補者を内定すると、以前に伺ったような気がいたしますけれど……?」  つぎの参議院選挙は六十一年七月で、あと一年九箇月あるわけだが、来年三月までには全国の下部組織や支持団体がそれぞれの推薦候補者を党本部に届け出ることになっている。党ではその顔ぶれを見渡した上で、候補者名簿順位付けの慎重な検討にとりかかる。  柏木美輪は過去二回の選挙のさいの経験で知っているのだが、教団が候補者を決定する政治部会には、最初からその候補者が顔を出して、満場一致ですんなりと決まってしまうのが常だった。候補者選びはほとんど天沼の独断でなされるからで、おまけに彼はそれをギリギリまで側近たちにも洩《も》らさないため、彼が誰《だれ》を連れてくるか、さまざまな憶測がとびかうほどだった。宏神会のお抱え議員は教主の政治道楽のおもちゃだなどといわれる所以《ゆえん》でもあった。 「研修会の都合もございますので、政治部会の日取りと時間をきちんと伺っておいたほうがよろしいかと存じまして……?」  今夜はなんとしても動かぬ言質《げんち》を取ってしまおうという、強硬な意気込みのこもる口調だった。  天沼は、額が出っ張って、両眼と眉間《みけん》のひっこんだ独特の凹凸《おうとつ》のある顔を、考え深げに庭のほうへ向けていたが、つとそれを戻すと、急に醒《さ》めた眼差《まなざし》で美輪を見やった。 「柏木君、あんたもすでに議員を二期つとめ、今度の任期が終る頃には五十を一つ二つ越す齢《とし》になる。そろそろ政界から足を洗い、教団に尽くそうという気にはならんかね」  美輪は豊かな胸が波うつほど大きく息をのんだ。寝耳に水といった驚きを満面にたたえたが、内心では危機感があったからこそ、強引に押しかけてきたものだろう。 「教団も最近は若い信者層が増加していることでもあり、彼らの意見を代表するような新しい候補者を送ったほうがよいという声が強くなっている」 「でも……でも私は、政治を通して教団にお尽くししています。ひたすら教団のために……その理想を政治の場へ……」  美輪は焦燥のあまりか、思わず舌をもつれさせたが、すぐに立ち直ると、いよいよ必死な表情を天沼に近付けた。 「しかし、まだまだ半分も、思うような働きができておりません。児童福祉のための教育改革、老人福祉に繋《つな》がる医療制度の改善等々、ようやく手をつけたばかりでございます。これからが正念場と心得、いよいよ命がけで有権者、いえ、教団のご恩に報いたいと——」  自然とまた演説口調になっている。何が「ようやく手をつけたばかり」かと、天沼は肚《はら》の中で嗤《わら》った。およそ女性タレント議員で評判のいい人物というのは、「なんにもしないからいい」といわれているくらいのものだ。美輪にしても、政務次官の時代には、万事もっともらしい顔をして事務次官に相談し、箸《はし》の転《こ》けたことでも局長を呼んで説明させるというやり方だったから、大した失言もせずになんとか切り抜けたのだ。ところが最近では、何かと勝手な行動や、出すぎた発言が鼻につくようになった……。 「まあ、今さらあんたが芸能界に戻れないという気持はわかるがね」  天沼は皮肉な笑いを口許に滲《にじ》ませた。 「あんたの女優時代を憶《おぼ》えている人なんぞ、もう国民の二、三割というところかもしれない。それはつまり、タレント議員としてもネームバリューが失《う》せてきたしるしでもあるわけだよ。このさい、潔《いさぎよ》く引退して、後輩に道を譲りなさい」 「そんな……教主さま、私はまだ……」 「むろん、教団内にはしかるべきポストを用意して、元議員として恥かしくない生活を保証してやろう」 「いいえ、私は政治を自分の天職と信じ、使命感に燃えているのです。心も身体《からだ》も、まだ若さに溢《あふ》れているつもりでございます。教主さま、なにとぞ私にもう一度——」  天沼は面倒臭そうに首を振った。 「いや、これは神のご意志なのだ」  断ち切るように呟《つぶや》き、また横を向いた。彼が冷やかな顔になると、それはもうほんとうにとりつくしまもないほど、ほとんど酷薄な印象すら与えた。  美輪は絶望を受け入れまいとするように全身を震わせた。異様に目を見張り、つぎにはわななく唇からヒステリックな声が迸《ほとばし》り出た。 「教主さま、後輩とおっしゃいましたのは、大賀八千代のことでございますか」  やはりさっきの電話を立ち聞きしたのだろう。 「つぎの改選では、もしかしたらあの女を?」 「まだ決めたわけではない」 「あんまりですわ、教主さま。私は、ただただ教主さまに忠実に、何もかも教主さまに捧《ささ》げて、神さまの下僕《しもべ》になったつもりで働いておりましたのに——」  甲走《かんばし》った怨嗟《えんさ》は女の声に変っていた。 「嘘《うそ》をつけ」  天沼の声にも怒気《どき》がのぼった。 「よくぬけぬけといえたものだ。わたしが知らないと思うのか。あんたは最近、光教まで誘惑して、いかがわしい関係になっているじゃないか」  一瞬ハッとたじろいだが、美輪は遮二無二頭《しやにむにかぶり》を振った。 「いいえ、いいえ、そんなことは絶対に……誤解ですわ。それとも、きっと私を陥《おとしい》れようとする者の汚い中傷を、教主さまは真《ま》にお受けになって……」  天沼の掌《て》が突然テーブルを叩《たた》いた。いかにも厭《いと》わしげに、顔を歪《ゆが》めて美輪を見据《みす》えた。 「とにかく今夜は引きとりなさい。来《きた》るべき改選では、教団があんたを推薦することはまずありえない。それだけ承知していればよろしい」 「推薦がなくても、私は立ちます」  売りことばに買いことばのようなものだった。 「馬鹿《ばか》なことをいうな」  天沼は今度こそ、低い声をたてて嘲笑《あざわら》った。 「あんたは比例代表制というもののメカニズムもわかってないのかね。教団の後押しなしで、国民党があんたみたいな女優の古手を、当選圏内に順位付けすると思うか。まあ現職ということで名簿には入れてくれたとしても、せいぜい二十九番か三十番目の当て馬にされて、自ら恥を天下に晒《さら》すようなものだ」  三年ごとに行われる一回の選挙で、参議院比例代表区の定員は五十名。各党が十名以上、上限なしの候補者名簿を発表することができる。与党の国民党では前回三十位まで順位付けした名簿を公表したが、当選圏はおよそ二十位以上と考えられていた。十九位か二十位あたりがボーダーラインで、つぎは補欠の繰り上りも期待できるが、二十五位以下になると「当て馬」と呼ばれて、まず逆立ちしても当選の見込みはないだろう。  だがこの時、柏木美輪の頭脳は、そうした現実の把握《はあく》をいっさい拒絶して、どうしたらこの事態を一挙に逆転させられるか、直線的な思考へひた走っていた——。    3  美輪はひとまず、客殿の自室へ引き揚げてきた。十一時十分になりかけている。天沼とはそんなに長い時間話したわけではなかったのに、彼の部屋を訪ねる前と後とでは、彼女には周囲の世界が一変してしまったような気がしている。この半年くらい、天沼がとみに自分を疎《うと》んじ始め、代りにほかの女を身辺に近づけている気配や、一般にタレント議員の新鮮さが失せてきていることなど思い合わせて、隙間《すきま》風のような危機感を覚えてはいたものの、まさかもう今の時期から、あれほど冷然たる引導を渡されようとは予想だにしていなかった。  私はすでに実績も貫禄《かんろく》も十分な女性議員の代表格なのだ。大賀八千代みたいな小娘に代りがつとまるとでも思うのか。教主は八千代の肉体に目がくらんだか、それとももう半分ボケているのかもしれない。  美輪は内心でありったけの悪態をつき、鏡に向かって化粧を落とす指先が怒りと興奮で震えている。  バスを使ったのもなかば上《うわ》の空で、上ると、淡いラベンダー色の身体が透けて見えるようなネグリジェに着替えた。アップにしていた髪を肩にとき流し、彫りの深い造作の大きな顔には、また寝室にふさわしい化粧を施す。一見薄化粧のようだが、シミの目立ち始めた目許《めもと》や頬《ほお》には、ていねいにファウンデーションを塗り重ねた。  化粧の途中で、ベッドサイドの電話が鳴り響いた。受話器を取ると、 「あ、もう帰ってたんだね」  鼻にかかった声は、案の定、光教だった。 「さっき掛けたら出なかったから」 「秘書が来て、ロビーで話してたからでしょ。光教さんは、どこから?」 「十一時少し前に帰ってきたんだ。今夜は、ほかに誰《だれ》か泊ってるの?」 「いいえ、私だけのようだわ」  客殿にはツインのベッドルームが四つと、ロビー、小応接室などの設備がある。教主が上京して、何か催しが行われた時には、大抵美輪がここに泊り、するとほかの幹部たちはなんとなく遠慮して、東京支部の近くにある別の宿舎に泊るのが常だった。天沼と美輪がとくべつの間柄《あいだがら》にあることは、教団の幹部クラスには知れ渡っている。とはいえ、二人の間の空気がどんなふうに変ってきているか、あるいはここ二年近くは全く関係を持っていないことなど、微妙な状況まではまだ知られていないはずだった。 「じゃあ、ちょっとそっちへ行こうかな」  まるでさりげなさそうにいうが、昨日美輪の議員宿舎へ彼が電話を掛けてきて、その約束になっていたのだ。  瞬時の迷いが美輪の脳裡《のうり》をかけめぐったが、やはり彼を来させることにした。 「どうぞ。お待ちしてますわ」  電話を切った美輪は、鏡の前に戻《もど》り、顔中にパフを叩いて化粧の仕上げをした。  カーテンを少し開けて、庭先を覗《のぞ》いた。  客殿の右手には、拝殿が正門寄りに突き出している。客殿も正門のほうに向いていて、一階のこの部屋からも、門の一部と、昼間守衛のいる小さな事務所のような建物が見えた。門扉《もんぴ》はすでに閉ざされ、守衛室の灯《あか》りも消えている。ふつうは夜十一時|頃《ごろ》、守衛が正門と裏門の通用口の扉《とびら》に鍵《かぎ》を掛け、自分も敷地の隅《すみ》にある家へ引きとってしまうはずだった。  拝殿の屋根の上の、教団のシンボルマークを照らす光が、シンと静まった庭にもほの白くふり注いでいる。  教主と私との確執は、まだ誰にも知られていない——。  さっきから美輪は、そのことをしきりと自分の意識の中で確認しようとしていた。  天沼も、むろん美輪も、それぞれの秘書たちの前でさえ、まことに和気藹々《わきあいあい》と振るまってきた。敏感な秘書なら、最近二人の間が昔より淡白になったという程度は感じていたかもしれないが、それは天沼の年齢のせいとでも解釈しているだろう。  大事な式典や会議などで、天沼が美輪を抜きにしようとしたのも、今度の政治部会が初めてのことだ。——そう、確かに。  つぎの参議院選の候補者についても、美輪を切って代りに大賀八千代を立てる腹づもりなど、彼はまだ絶対に周囲に洩《も》らしてはいないだろう。十一月十五日の直前まで、美輪に対してさえ、いっさい秘密にしておきたかったのだ。それがいつもの彼のやり方だし、もし少しでも口外していたら、まわりの空気でたちまちこちらにも察しられたにちがいない。  教主の側近たちの顔をつぎつぎと思い浮かべ、美輪はしだいに自分の見通しに確信を深めた。天沼が美輪を疎んじていることなど、誰一人気付いてはいないのだ。  万一、多少でもそれを感じ取っている者がいたとすれば、長男の光教くらいではなかろうか。あの男は若いくせに、妙に鋭敏な嗅覚《きゆうかく》を備えている。  でも、光教なら、こちらの意のままに操縦する自信がある……。  ノックが聞こえ、美輪はおそろしいほどつきつめた精神集中の表情を緩めた。急いで微笑をのぼらせながら、ドアへ歩み寄った。 「はい。どなた?」  答えずにまたノックするのは光教の癖である。同じ敷地内の母屋《おもや》から忍んで来るのだから、五分と暇はかからないわけだ。  今年二十六歳になる長身の光教が、上体を傾けるようにして入ってきた。酒臭さが鼻をついたが、好都合だと、美輪は一瞬思った。急がなければならないのだ、もし決断するとすれば。  英国製のチェックのスーツに、ネクタイを半分ほどいた恰好《かつこう》の光教は、けだるそうにベッドの端へ腰をおろした。とび抜けて秀《ひい》でた額と、その反動みたいに眉間《みけん》から眼窩《がんか》の落ちくぼんでいる特徴的な輪郭を見れば、一目で天沼道暢の息子とわかるが、光教のほうがまだしも全体的に整っていて、天沼ほど特異な容貌《ようぼう》という印象は与えない。背も高いし、白皙《はくせき》なので、見方によっては貴公子然ともいえなくはないが、そのぶんまたキザなムードが鼻についた。光教と美輪とは、五箇月ほど前、やはりこんなふうに彼女がこの客殿に泊った夜遅く、光教がふらりと遊びに来て、そのまま肌《はだ》を重ねてしまった。その後も、主にここで、二回ほどは議員宿舎で、都合六、七回の関係を持っている。  いつのまに教主に知られたのか?  いや、たぶん憶測でいっただけなのだ。  それにしても、あんな疑いを持たれた限り、もはや私と教主との間を元へ戻すことは望めないだろう——。 「今日はお終《しま》いまで会場にいらしたの?」  美輪は声を甘くして問いかけた。 「まあね。教団のロートル連の話なんかは聞いてもしようがないんだけど、最後の坪内先生はぼくの顔で頼んだ講師だからね。彼の講演がすんだあと、うちの若いのも二、三人連れて銀座で接待して……あの人も飲むと話がくどくなるからな。ほどほどで腰を上げさせるのが厄介《やつかい》だったんだよ」  顎《あご》をあげてネクタイを引き抜き、面白《おもしろ》くもなさそうにいう。坪内というのは、確か光教が卒業した東京の私大の国際政治学の教授で、本当に彼の顔かどうかは知らないが、よく教団の講演会などに引っぱり出されていた。  現教主の道暢が生まれた頃、家は貧しい農家で、彼は高等小学校しか出ていない。戦後は父親の素朴《そぼく》な布教活動を手伝い、それなりに泥《どろ》くさい苦労も嘗《な》めてきているが、昭和三十三年生まれの光教が物心つく頃には、宏神会は日本屈指の新興教団に成長していた。この春私大の哲学科の大学院を卒業した彼は、わざとシニカルな目で教団を眺《なが》め、冷笑的な言辞を弄《ろう》したりもするが、かといって父親の許をとび出し、別の途《みち》で生計を立てるだけの才覚もなく、結局はこれという仕事もしないまま、現在は東京支部の教会長代理におさまっているのだった。 「まあ、どうでもいいや、そんなことは。今日のあなたはとても素晴らしかったよ。でも、今のその姿のほうが、もっといいね……」  酔った時特有の、舌の重い口調で呟《つぶや》きながら、豊満な美輪の胸をまさぐりかけるのを、彼女はじらすようにその手を離させ、ドアのロックとチェーンを確かめた。反対側のガラス戸のカーテンも閉め直す時、チラリと見やった庭にはやはり人影もなかった。明鏡殿の人たちは、日頃から夜が早い。教主も一眠りしているとすれば、今この敷地内で目覚めているのは自分たち二人だけではないだろうか——。  フロアランプを消し、サイドテーブルのフットライトだけになった室内で、美輪ははじめて光教のそばへ身体《からだ》をすべりこませた。  情事はいつも、美輪のリードで進められた。年上の女の熟れた魅力にひかれて、光教は彼女に手を出したのだし、彼女のほうでは、いずれ三代目教主を継ぐ彼と結ばれておけば、将来損はないという打算が働いてのことだった。  ひどく酔った時の光教は、性急に求めて、あっけなく果てた。美輪から離れて仰向《あおむ》けになり、眠りかけている彼を見ると、 「喉《のど》が乾いたでしょ」  暗示のように囁《ささや》きかけ、彼女はそっとまたベッドを抜け出した。  全裸のまま、バスルームへ入った。  洗面用具のバッグの底に、旅先などで服用する睡眠薬のシートがあり、白い楕円《だえん》形の錠剤を三錠取り出して掌《てのひら》にのせた。歯ブラシの背で押し潰《つぶ》して粉にする。急いでいるのでなかなかうまくいかないが、どうにか細かくなると、口に入れ、グラスの水も口に含んだ。  ベッドへ戻り、まどろんでいる光教の口へ、自分の唇《くちびる》をかぶせた。睡眠薬の溶けている水を、気をつけてゆっくりと、口移しに流しこんだ。彼は何かいいかけたが、どうにか飲みこんだらしい。また意味のない声を洩らし、横を向いて、いよいよ深い眠りに吸いとられていく様子——。  美輪は鏡台の前の腕時計を掴《つか》みとって、灯りのついているバスルームへ再び駆けこむ。時計の針は十一時四十八分を指していた。  鏡を見ると、髪が乱れて化粧のとれかけた蒼白《そうはく》な顔が、こちらを見据《みす》えていた。その下にある裸身は、張りのある乳房が豊かに盛り上り、ウエストのくびれ、腰の膨らみにもたるみはなく、まだどこにも年齢の衰えを感じさせはしない。  自分でそれを認め、同時に決意が定まった。天沼道暢が教主でいる限り、自分は今期限りで議員の座を明け渡さなければならない。そしてそれを失うことは、すべてを失うことと同じ……尊敬される地位、利益を生む源泉、常々まわりにいて自分を持ち上げてくれるひとかどの男たち……やがて自分は教団の片隅に追いやられ、老婆《ろうば》のように忘れ去られるだろう!  今夜を逃せば、いっさいが手遅れになる。  美輪はベッドルームのカーテンとガラス戸を少し開けた。そこから天沼のいる離れまでは、拝殿の前を通って、およそ十五メートル。  庭はいよいよひっそりと静まっている。  美輪はガラス戸の外へ出て、それを閉めた。一度大きく息を吸いこむなり、全裸のまま走り出した。無我夢中の疾走で拝殿の前を横切り、さっき出てきた離れの木戸に達した。  木戸にはやはり錠はおりていなかった。大賀八千代が忍びこめるようにしてあるのだ。  四畳半の座敷へ上り、電灯をつける。キャビネットの中にいつも置いてあるアイスピックを掴みとると、すぐにまた灯りを消した。  十畳の座敷も暗がりだった。  手探りで寝室のドアを見つけ、そっと開ける。  枕元《まくらもと》のスタンドの小さなライトを点《とも》して、セミダブルのベッドの上で天沼が寝《やす》んでいた。が、美輪がドアを閉めた小さな音で、彼は目を開けた。眠ってはいなかったのかもしれない。  首をもたげた彼は、こちらを向いて立っている美輪の裸身を、瞬時不思議そうに眺めた。 「八千代か……?」 「……」  彼はふいと息をのんだ。 「なに……美輪か」  アイスピックを後ろ手にした美輪は、小さく頷《うなず》いた。彼は弾《はじ》かれたように身体を起こし、ベッドから降り立った。 「どうしたんだ急に、そんな恰好をして……今度は色仕掛けか」  異様な殺気を感じ、それを否定しようとするような、妙な冗談口調でいった。 「それにしてもお前……いい齢《とし》をして、お前もようやるなあ」 「そんな冷たいことをおっしゃらないで……ね、教主さま、今までのことを思い出してください」  美輪は囁きながら近付き、白い寝衣《ねまき》を着た天沼の胸へ、いきなり力いっぱいアイスピックを突き立てた。天沼は低く長い呻《うめ》きを洩らした。アイスピックを引き抜くと、鮮血が迸《ほとばし》り出て、美輪の胸や腕にもとび散った。彼女はさらに二度三度と、小柄な天沼の身体をメッタ突きにし、彼がその場に頽《くずお》れるまで夢中で続けた。  美輪の全身も血まみれになり、肌の上を滴《しずく》が流れた。  なかば茫然《ぼうぜん》自失し、なかばは異常なまでの忍耐力で、彼女はなお十分余りも、その場に立ち尽くしていた。その間にしたのは、サイドテーブルの上からティッシュペーパーを取って、アイスピックの柄《え》の指紋をていねいに拭《ぬぐ》い、こと切れた天沼のそばにそれを置いたことだ。  デジタルの小さな青い数字が十二時十分を示す頃になると、美輪の身体の返り血はほとんど乾いて、動いても足許に滴《したた》ることはなくなった。  彼女は汚れたティッシュペーパーだけを掌中に握り、寝室を忍び出た。ドアを閉める時、「かみなずみ」と呟いたのは、ほとんど無意識の習慣だった。  木戸から自室まで、再び全裸で拝殿の前を走った。  光教は低い鼾《いびき》をかいて眠っていた。  彼女はバスルームに直行して、ティッシュペーパーをトイレに流した。バスタブに湯を溜《た》めながら、髪と身体を洗った。客殿のバスタブは檜《ひのき》でできている。そこに湯を満たして、朱に染まった全身を入念に洗い、最後にバスタブもきれいに洗い流した。  ほてった身体をバスタオルに包んでいると、今さらのような激しい動悸《どうき》が胸に襲ってきた。いっさいの思考を追い払おうとするように、幾度も頭を振った。今は何もかも忘れて眠りたい。ふつうは一錠しか使わない睡眠薬を二錠取り出して、水で飲みこんだ。  相変らず一糸まとわぬ姿で、彼女は光教のそばにもぐりこんで目をつぶった。    4 「うわぁ、これはまた、凄《すご》い血だわねぇ」  緊迫した現場検証の最中に、突然ひどく場ちがいなゆるりとした調子で、だが妙によく通る女の嘆声が上ったので、居合わせた男たちがいっせいにそちらを振り向いた。が、彼女は別段たじろぐ風もなく、しかしさすがに多少トーンを落として付け加えた。 「犯人はおそらく、相当な返り血を浴びたことでしょうね」  本庁捜査一課から現場へ急行していた臼井《うすい》警部が、彼女と目が合うと軽く会釈《えしやく》して、 「ああ、検事さん、ご苦労さまです」  彼女も目顔で挨拶《あいさつ》を返した。美人とはいえないがどこか愛敬《あいきよう》のあるお多福顔の彼女が、東京地検刑事部一方面主任の霞夕子《かすみゆうこ》検事であることを、本庁の者ならもう大抵が知っていたから、それでみなはまた平静な表情に戻《もど》って検証を続けた。いっときまだ彼女の顔を眺めていたのは、噂《うわさ》には聞いていたものの実物を見るのははじめてという若い捜査員の二、三人くらいだった。  警視庁嘱託医による検屍《けんし》はおよそ終っていた。 「刺し傷は四箇所ですね。胸の傷は心臓からやや外れていますが、下腹部の傷は腸に達しているようです。直接死因は出血多量と思われますが」  まったく、夥《おびただ》しい血潮が被害者の全身と周囲の絨毯《じゆうたん》を染め、壁やベッドの脚にとび散っているのだ。 「凶器はやはりこのアイスピックでしょうか」と、臼井がまだ死体のそばに置かれたままのそれを指さして尋ねる。鋭く尖《とが》った長いアイスピックにもどっぷりと血のりがこびりついているが、木の柄は不思議にきれいだった。  中年の嘱託医がそれを注意深く眺めて、 「まずまちがいないと思いますね」 「死亡推定時刻は?」 「死後七、八時間は経過している模様ですから、昨夜の十二時から一時の間くらいでしょうか」  嘱託医は慎重に考えながらの口調で答えた。  検屍に続いて、血痕《けつこん》や指紋の採取などが始まると、臼井警部は屋敷内の捜索や近隣への聞込みの指示を部下に与えてから、寝室の入口に立っていた夕子に近付いてきた。四十五、六の、腹の出っ張った磊落《らいらく》そうな人物で、夕子とはすでに何度も顔を合わせたことがある。 「被害者は宏神会の教主だそうですね」  最初に思わず嘆声をあげてからは、唇を引き結んで見守っていた夕子だったが、臼井がそばへ来るとさっそく質問を発した。 「事件の状況などは、何かわかっているんですか」 「いや、まだまったく。最初に死体を見つけたのは、ここの母屋《おもや》に住み込んでいる女性です。教主は今日、浜松に新しくできた教会の祭りに出席するため、八時にここを出る予定で、尾形という手伝いの女性が七時に教主を起こしに来たそうですが——」  母屋から渡り廊下を伝ってきた彼女は、襖《ふすま》の外で声を掛け、つぎには寝室をノックしても返事がないため、怖《おそ》る怖るドアを開けてみて、惨状を発見したということである。  午前七時十分|頃《ごろ》一一〇番通報がなされ、本庁と所轄《しよかつ》の高輪署から捜査係と鑑識係の一行が駆けつけた。一方、事件は警視庁から地検へ連絡され、副部長が一方面主任の夕子に報《し》らせて、現場への臨場を促した。現場の高輪三丁目は、東京都を八方面に分けてあるうちの一方面に含まれる。  副部長の電話は、台東《たいとう》区|谷中《やなか》にある古い寺の、霞夕子の自宅へ掛ってきた。  夕子は自分のパサートを運転してさっそく家を出、途中で文京区|本郷《ほんごう》に住んでいる検察事務官の桜木洋を乗せた。自宅で事件を聞いた場合には、大抵その手順で夕子は現場へ駆けつける。可能な限り自分の目で、それも一刻も早く、ありのままの現場を見ることが、夕子の信条だった。 「昨夜教主に来客があったとか、誰《だれ》かが言い争いの声を聞いたというようなことは?」 「いや、ここは離れになっていて、人の出入りや話し声なども、母屋からではわかりにくいらしいんですね。ま、詳しい事情聴取はこれからですが」  大柄《おおがら》で精力的に見える臼井のほうが、多少なだめるようにいう。おっとりした顔立ちとスローテンポの喋《しやべ》り方に反して、夕子がずいぶんせっかちで行動派の検事であることも、彼はもう心得ていた。  昨夜に当る十月八日夜、明鏡殿には教主のほかに八人が泊っていたことが判明した。教主の長男の光教と、館《やかた》の管理とお手伝いを兼ねる尾形夫婦、教主の運転手加藤の四人が母屋に、守衛の山口とその妻、それに長年教団で働き、今は高齢で身体《からだ》の不自由な老人が西南の隅《すみ》にある小さな棟《むね》に、あとは参議院議員の柏木美輪が客殿に滞在していたという。  臼井警部は、尾形夫婦と山口夫婦と加藤運転手をひとまず母屋の座敷に集めて、昨夜の模様を尋ねた。それによると——  天沼と柏木美輪が加藤の運転するロールスロイスでここへ帰ってきたのが、九時四十分頃。天沼は離れにくつろいで入浴し、尾形の妻がいつもの通り、ブランデーのセットと常用の健康食品を用意した。天沼にもう寝《やす》んでいいといわれて引きとったのが、十時半だった。 「それでも私共は、もしまた何か教主さまのご用ができてはと思い、十二時まで起きてましたが、そのあと私と家内が順に風呂《ふろ》に入り、十二時半に裏のボイラー室へ行って、ボイラーを止めて寝みました。居間でテレビをつけておりましたせいか、離れのご様子にはまったく気付かずに……誠に申しわけの立たぬことで……」  尾形は五十すぎの、やや神経質でいかにも信心深そうな男だ。夫婦とも、まるで事件が自分たちの不注意のために起きたとでも考えているように、色を失っていた。  加藤運転手は十一時すぎに床《とこ》につき、すぐに眠ってしまった。心当りになるようなことも聞かなかったという。 「車を降りられた時、教主さまは、来客もないから今夜は早めに寝まれるようなお口吻《くちぶり》でしたが……」  守衛の山口は四十すぎで、屈強な体格だが、顔立ちはいたって素朴《そぼく》。やはり教主の死にひどく打ちのめされているように見えた。ここで働いている人たちは、全員が宏神会の熱心な信者にちがいないから、そのショックは外部の者には測り知れないものがあるだろうと、臼井は推察した。 「私は、昼間はお庭やお屋敷の掃除など手伝いまして、夜はふつう十一時まで、正門の脇《わき》にある事務所で夜警をつとめております。十一時になって、その晩お泊りの方がみなさん戻《もど》っておられれば、正門の横の通用口と裏の通用口に錠をおろして、私も家に入って寝ませていただくのですが。正門の大扉《おおとびら》は、ふだんは開けません。昨日は、教主さまがお帰りになる前に開けまして、またすぐ閉めて閂《かんぬき》を下ろしました。——昨夜も十一時になって、いつもの通り戸締りをいたしました時には、少しも怪しい気配はなかったのですが……」 「光教さんはもう帰っていたのですか」  臼井がふと思い出して訊《き》くと、尾形がなぜかハッとした様子で、すぐさま答えた。 「はい、十一時少し前にお帰りになりまして、間もなくお寝みになりました」 「今朝事件が発見された時、戸締りはどうなっていたんですか」  臼井はまた山口に尋ねた。 「表も裏も、きちんと錠がおりてましたですよ。尾形さんの叫び声を聞いて母屋へとんでいく時には、泥棒《どろぼう》でも入ったのかと思って、わたしがすぐに調べたんですが、どっちも昨夜錠をおろしたままで……」 「鍵《かぎ》はあなたが保管しているのですか」 「いえ、内側から戸締りする時には、鍵は要りませんのです。掛け金をおろすだけですから。でも頑丈《がんじよう》なもので、簡単に外れたりはしませんが」  外から錠を外す時には、当然鍵が要る。が、この明鏡殿が無人になることはほとんどありえないので、表と裏の通用口の鍵は、まとめて台所の柱に吊《つる》したまま、長年使用されていなかったことが、みなの話でわかった。  臼井は念のため、捜査員に検《あらた》めさせたが、今現在も二つの鍵は柱の釘《くぎ》に吊下っていた。 「ほかに出入口はないんですか」 「いいえ、あとはずっと石塀《いしべい》に囲まれてまして……」 「あの塀は、高さ四メートルくらいはありそうだな」  臼井がそこから見える塀の一部に目をやった。梯子《はしご》でも使わぬ限り、よじ登るのは無理だろう。石塀を乗りこえた形跡がないかどうかは、目下捜査員が調べていた。 「——すると、今の段階では、この敷地内は密室状態だったと考えられるわけですね。——屋敷そのものの戸締りはどうだったのです?」 「教主さまのお離れの裏側にある、庭へ出る木戸の錠が、外れたままになっておりました。昼間見た時には、確か掛っていたと思うのですが」  尾形が首をひねった。目下のところ、そこが犯人の出入口と見做《みな》されている。 「木戸の錠が外れていたということは、誰か来客を予期して、教主が外したとも考えられますか」 「さあ……お客さまのことは伺っておりませんでしたが。教主さまが何かでちょっとお開けになり、そのままお寝みになったのかもしれませんですねぇ。何分人を疑うことのない、おおらかなお方でしたから……」 「なるほど」  臼井は、さっきから背後でやりとりを聞いている夕子のほうへ、視線を配ったが、彼女が黙っていたので、ひとまず話を変えた。 「この明鏡殿には、ほかにもう一人お年寄りが住んでいるということでしたが……」 「ええ。七年ほど前に脳出血で倒れてからは、寝たり起きたりで、頭もだいぶん呆《ぼ》けてきてますから、まあ廃人同様なのですが」  尾形が説明した。巽《たつみ》という八十六歳になる老人で、身寄りがないため教団が引きとり、尾形と山口の妻が世話をしているそうである。 「教主さまは慈悲深いお方で、そんな年寄りのことでも、こちらへいらっしゃるたびに、どんなふうかとお尋ねになりましてねぇ……」  おとなしそうな山口の妻が、か細い涙声でいった。 「外へ出ることはないのですか」 「家の中を伝い歩きするのがやっとくらいで……今朝はまだうとうとしてるようですので、事件のことは知らせてないのです。ショックでまた倒れるようなことがあっても大変ですし……」  臼井は、その老人からの聴取はもう少し後に回した。 「ところで、長男の光教さんはどこにおられるんですか。一向に姿が見えないようですが」  すると尾形が、またどこかあわてたような瞬《まばた》きをして、一度妻と目を見合わせてから、ぎごちない声で答えた。 「はい、いえ、すぐここへ来られると思います。今、柏木先生に事件を報らせにいっておられるものですから」 「柏木議員はどこに泊っておられますの」  突然夕子が質問を発したので、一同は吃驚《びつくり》して彼女を見やった。 「客殿です。そこの、拝殿の向う側にあるんですが」 「でしたら、そちらでお話を伺いましょうか。私も参考までに、その客殿を拝見したいものですわ」  夕子は臼井を顧みて、みながまだいささか呆気《あつけ》にとられているうちに、身軽く立ちあがった。    5  宏神会の教主さまが惨殺《ざんさつ》されたというのに、今日はまたとりわけ晴れやかな好天気だと、夕子は内心で感嘆しながら、拝殿の前を通って、客殿のほうへ歩いていった。母屋《おもや》と教主の居室は長廊下で繋《つな》がっていたが、拝殿と客殿とは独立した建物だった。それぞれ数メートルの間隔をあけ、拝殿のほうが正門寄りにやや突き出している。拝殿は敷地の中心に据《す》えられているのかもしれなかった。  拝殿の前から正門のほうを見ると、植込みの間から、西南の隅にもう一軒古い木造の平屋があるのが認められた。山口夫婦と、巽という老人の住んでいる家だろう。 「警部は今朝何時|頃《ごろ》ここへお着きになりました?」  夕子は先を行く臼井に声をかけた。 「七時五十分というところですね。本庁から召集を受けて……高輪署の連中はもっと早かった。すぐそこですから」  夕子の車はサイレンを鳴らして走るわけにはいかないから、到着は八時十五分前後になった。今はもう九時半を回っている。 「そんなに早くお着きになったのに、まだ光教さんの姿を見ていないんですか」 「そうなんですよ」と、彼は歩きながら首を傾《かし》げた。  が、その一、二分後には、二人は光教と柏木美輪との両方に出くわす形になった。小走りで案内に立った尾形が客殿の玄関に達するのとほとんど入れちがいに、二十歳代なかばくらいの背の高い男と、元女優の柏木美輪があわただしく出てきたからである。男が光教らしいとは、一目見て察しられた。彼は寝起きのような青白い顔をして、髪にはまだ櫛《くし》が通っていない。美輪はさすがに紺のスーツをきちんと身につけ、薄化粧もしていたが、表情が引きつり、日頃雑誌やテレビなどで見る彼女とは別人のような印象だった。 「警視庁の臼井です」と、彼は素早く警察手帳を示した。 「こちらでお話を伺いますから。向うはまだ現場検証でとりこんでますし」  二人をロビーへ逆戻りさせた。客殿は上品なホテルのような感じで、グレーの壁に囲まれたロビーはひっそりと落着いていた。  臼井は尾形を去らせ、光教と美輪を手近な椅子《いす》に掛けさせた。臼井と、もう一人の本庁刑事と、夕子との三人が向かいあった。臼井は念のため相手の氏名を確認し、光教に対して簡単な悔みをのべた。夕子が地検の主任《キヤツプ》であることも彼らに伝えた。 「事件はいつ聞かれましたか」  臼井はまず光教に視線を据えた。 「今朝……起きてすぐですが」 「何時頃です?」 「七時……十五分くらいか、尾形の声で起こされて……」 「現場はごらんになりましたか」 「ええ、それは……もちろんすぐに駆けつけましたので」  臼井が黙って見返していると、光教は自分のほうからまた口を開いた。 「そのあとぼくは、事態が信じられないというのか……教主があんなことになるなんて……お恥かしい話ですが、しばらくは一種の虚脱状態でして、そのうち警察の方が到着されたので、柏木先生にもお知らせしなければならないと気がついて、こちらへ来ていたんですが」  鼻にかかった声で早口に喋《しやべ》り、出っ張った額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》った。 「なるほど」と臼井は一応|頷《うなず》いて見せ、 「昨夜は何時頃ここへ戻られましたか」 「十一時ちょっと前頃」 「それから?」 「すぐ自室で寝《やす》みました」 「母屋のほうですか?」 「もちろん。ぼくは東京支部の教会長代理をつとめていますので、月のうち二十日くらいは東京にいて、その間はこちらで寝起きしていますから」 「失礼ですが、ご家族などは?」 「いや、ぼくはまだ独身です」 「——すると、昨夜十一時頃寝まれて、今朝は七時十五分に起こされるまで、事件には全然気付かなかった?」 「その通りです」と、光教は力をこめて頷いた。  臼井がまた少し黙ったまま強い視線を当てていると、相手はジッとしていられない様子で、逆に身を乗り出した。 「で、どうなんです、犯人の目安はついているんですか」 「いやいや、これから関係者に教団内部の事情などをいろいろ伺いませんとね。犯人は教主の寝室へ直行した様子だし、室内を物色した形跡もないので、流しの物盗《ものと》りなどではなく、かなり内情に通じた者の仕業《しわざ》という見方が有力ですから」 「内情に通じた者……」  光教はいよいよ落着かない表情で、しゃくれた顎《あご》をしきりと指でつまみながら、 「まあ、いずれにせよ、教主に対して何かよほどの逆恨《さかうら》みを抱いていた人間じゃないですか」 「逆恨みといわれると?」 「いや、別に具体的なことはわかりませんが、犯行の手口からして……ベッドの上で教主をメッタ突きにするなどというのは……」  光教は発作的に全身を震わせた。 「柏木先生は、昨夜は教主とごいっしょにこちらへ帰られたそうですね」  臼井は柏木美輪へ向き直った。 「さようでございます」 「車が着いたのが九時四十分頃と伺っていますが、その後は一度も教主と会われていないのですか」 「いえ……」  美輪は大きな眸《め》を伏せ、口許《くちもと》を引き締めてまた警部を見返した。 「実は、十時四十分頃でしたか、教主さまからお電話を頂きまして、話があるので来るようにと……」 「なに……教主の部屋へですか」 「はい。お廊下の横の木戸から入らせていただき、お座敷で三十分ほどお話を伺ってまいりました。つぎの参院選にも、教団としては当然お前を推薦するから、そのつもりで励むようにと……ああ、それが教主さまの最後のおことばになろうとは……」  美輪はふいに両手で口許を押さえて啜《すす》り泣いた。  臼井は、教主のその時の様子、その後また誰《だれ》か訪ねてくるような話は聞かなかったかなどを質問したが、美輪は何も変ったことは憶《おぼ》えていないと首を振った。 「すると、先生は十一時十分頃、こちらの客殿へお戻《もど》りになったわけですか」 「その頃だと思います」  美輪はやっと感情を抑えたふうに頷いた。 「部屋へ戻ってからは、すぐ寝まれたのですか」 「はい」 「今朝の騒ぎには全然お気付きにならなかった?」 「ええ……今しがた光教さんに事件を知らされました時には、本当にもう……まだ信じられないくらいですけど」 「それにしても、パトカーがサイレンを鳴らして何台も到着し、邸内は騒然としていたんですがねぇ」 「いえ実は、私、睡眠薬を飲んで寝みましたのです。床《とこ》が変りますとなかなか寝つけないたちなので」 「ああ、睡眠薬をね。それで今朝までぐっすり……?」 「はい……今日はたまたま、午前中のアポイントメントがございませんでしたし……」 「なるほど。しかし、これは少々|厄介《やつかい》な事態になるかもしれませんなあ」  臼井は太い眉《まゆ》をひそめて、ゆっくりと夕子を振り向いた。 「そうねぇ……とにかく内部犯という見方だけは動かせないようですから」  夕子はなるべくことば少なに応じた。が、その特徴のある声と、発言の内容は、二人を驚かせるに十分だった。 「内部犯? どうしてそんなことがいえるんです?」と光教が目をむいた。 「敷地内は一種の密室状態でしたからね」  臼井が引きとって説明した。 「表も裏も、門は内側から錠がおりていました。塀《へい》を乗り越えたような形跡も、今のところ認められない。となれば、教主の寝室へ侵入できたのは、昨夜この邸内にいた者に限られてくるわけです。当然こちらも、各人のアリバイを徹底的に追及する必要があります。そんなわけで、柏木先生にも光教さんにも、しばらくは不愉快な思いをおさせすることになるかもしれませんが」 「とくに、おっしゃることに矛盾があるような場合にはねぇ」 「それは、誰のことなんです?」 「あなたですわ」と夕子は気乗りしない顔で光教を見返した。 「ぼくの話のどこに——?」 「だってあなたは今しがた、ベッドの上で教主がメッタ突きにされたなんておっしゃったけど、ほんとにご自分の目で現場をごらんになったのなら、そんな思いちがいをされるはずはありませんわ。きっと尾形さんか誰かから、教主が寝室で刺殺されていたと聞いて、ベッドの上だと早とちりなさったんじゃないかしら」 「今まで現場を見ていないということは、実はあなたも母屋とは別の場所で寝んでおられたんじゃないんですか」  臼井は語気を鋭くして畳みかけた。 「たとえばあなたも、柏木女史と同様に、睡眠薬を飲んで熟睡していたといわれるかもしれないが、母屋の自室で寝ていたんなら、ほかの人が無理にもあなたを起こしたはずですね。ところが、尾形さんの奥さんが事件を発見した直後には、あなたの姿は母屋の中に見当らなかった。家の人たちがうろたえている間に、警察が到着して、現場検証や事情聴取が始まってしまった。ようやくあなたの所在がわかって、尾形さんがあなたに事件を伝えたのは、実はわれわれがこの客殿へ来るほんの直前だったのではないかと、わたしは睨《にら》んでいるのだが、ちがいますか」 「いや、そんなことは……さっきもいったように、ぼくはしばらく我を失った状態で……」 「まあ、これから一人々々個別に、綿密な聴取を行えば、おのずと事実は判明するでしょうが」 「ほんとはその前に、直接伺っておくほうが、ことはずっとおだやかに運ぶんでしょうけどねぇ」  夕子はあっさりといい添えて、壁に掛っている大本部の写真などを眺《なが》めやった。  複雑な沈黙が流れたのは案外わずかの間だった。まるで拝礼のように膝《ひざ》の上で手を組み、頭を垂れていた美輪が、ふいに深い息を吸って光教の横顔を凝視《みつ》めた。 「そうですわ。光教さん、警部さんたちがいわれるように、事実はいずれ明らかになります。でも私たちには少しも疚《やま》しいところはないのですから、ここでありのままをお話ししましょう。それこそ教主さまのお心に副《そ》うことにちがいありません。今となってはせめて一日も早く犯人が……ああ、かみなずみ」  光教は呆気《あつけ》にとられたような顔をしたが、美輪はひたむきな眼差《まなざし》を臼井に移した。 「ご想像の通り、昨夜光教さんは、教団の運営に関《かか》わる大事な相談事があって、私の部屋へいらしたのです。十一時二十分頃でした。それから午前二時すぎまで、私たちは真剣に話しあっておりました。そのうち光教さんが、日頃の心労が積もり積もってか、ぐったりしたようにベッドに仰向《あおむ》けになって、ついうとうととまどろんでしまわれたのです。その疲れきったお顔を見ましたら、起こしてお帰しするのがあまりにおいたわしくて、私も教主さまから大切なお世継ぎをほんのいっときお預かりしたような気持になり、そのままお寝みいただくことにいたしました。靴《くつ》だけお脱がせして、洋服のままでしたけれど。そのあとで私は、静かにバスを使い、睡眠薬を飲んで、隣のベッドに横になったのです。薬を飲んだ時刻が、午前二時半頃だったものですから、今朝はつい寝すごしまして、ほんの今しがた、尾形さんに起こされましたようなわけで……何もかもご推察の通りでございます」  国会議員に頭をさげられて、臼井はさすがに満足げに頷いた。 「今のお話にまちがいありませんか」  光教はといえば、まだ呆《あき》れたように美輪を眺めていたが、彼女にあっさりすっぱ抜かれてしまったのではどうしようもないと、観念したのにちがいなかった。 「申しわけありません。実は失礼を承知で柏木先生のお部屋にお邪魔していたのですが……いや、相談事というのは、父が最近教主の仕事を少しずつぼくに委譲しようとしていたので……今から思えば、予感があったのかもしれませんが、ぼくとしては責任の重さに耐えかねる思いだったのです。昨夜は、ちょうどいい機会だから、将来の教団運営についてのぼくなりの展望を柏木先生に聞いていただこうと思い立って……ぼくも話し出すとつい熱中するたちなもんですから……」  渋々認めた形の光教だったが、自分でいう通り、だんだんに熱っぽく、臼井たちを説得するような口調になっていた。午前二時すぎまで、美輪の部屋で確かに起きていたが、離れの異変にはまったく気付かなかったと明言した。 「離れとの間には拝殿が挟《はさ》まっていますし、建物はみんな見かけより堅牢《けんろう》に造られてますのでねぇ……」  美輪と光教の申し立てが一致したところで、臼井は一応聴取を打ち切った。美輪が宿泊した部屋の位置を尋ね、彼女の承諾を得た上で、室内を見て回った。ツインのベッドルームの隣に六畳の和室、バスルームには檜《ひのき》の浴槽《よくそう》が据《す》えられた高級旅館のような趣《おもむき》だった。  彼らをまだ足止めしたまま、臼井と夕子は客殿を引きあげた。現場ではようやく、鑑識係の現場検証が終りかけている。 「あの二人、どう見てもただの仲とは思えませんがね」  臼井が夕子の意見を求めた。 「そうねぇ、服を着たまま朝の九時すぎまでうたた寝したなんて、あんまり上手な嘘《うそ》じゃないわ。せめて別の部屋で寝たとでもいえばよかったのに」 「教主の後継ぎと教団お抱えの女性議員では、ちょっとしたスキャンダルになるかも知れませんな。柏木女史の立場にも相当なダメージを与えるだろう。それにしては案外手間を取らせずに打ちあけたものですが」 「ふつうは男のほうが、先に諦《あきら》めてばらしてしまうものでしょうけど」 「どうせばれるのなら、なるべく都合のいい形で話しておいたほうが有利だと、柏木さんが素早く判断したんでしょう。ああ見えても、彼女は男|優《まさ》りの女傑だと思いますね」 「そう、だから議員がつとまるんでしょうけど」  夕子はまだどこか考えこむような声で合槌《あいづち》をうった。  二人は、ロビーから拝殿の後ろを通って現場へ戻《もど》っていたが、夕子がつと裏門に歩み寄って、厚い木の扉《とびら》に付いている錠前を検《あらた》めた。今は掛け金が外れた状態で、指紋採取の粉が付着していた。 「ああ、確かに内側からなら、つまみをひねるだけで、錠を下ろしたり外したりできたわけだわ」  夕子はゆったりとした調子で独り言を呟《つぶや》いた。 「でも、それならどうして、錠が外れてなかったのかしら」 「え……?」 「だって、もし内部の人間の犯行なら、錠を外しておくだけで、外部犯の可能性を示唆《しさ》することができたわけでしょう。反対に、錠を掛けたままだと、犯人は自分で自分を密室の中に閉じこめてしまうようなものですもの」    6  霞夕子は検察事務官の桜木洋といっしょに、千代田区|霞《かすみ》が関《せき》一丁目の東京地検へ戻ってきた。  午後からは、午前中の不在を取り戻すように、現在|勾留《こうりゆう》中の被疑者や事件の参考人をつぎつぎ呼んで取調べを行った。桜木事務官は常に夕子の傍《かたわ》らで取調べの模様を聞き、最後に検事がまとめて読みあげる供述の内容を書きとって、調書を作成する。  ちょうど取調べの合間に、高輪署に設置された捜査本部から、臼井警部が電話を掛けてきた。しばらく話を聞いていた夕子は、電話を切ってから、両肱《りようひじ》をついた手の上に顔をのせ、やがてそれを桜木のほうへめぐらせた。 「寝室以外の場所では血痕《けつこん》は認められなかったそうだわ」  いきなりいったが、桜木はおよそ理解した表情で頷《うなず》いた。臼井が現場検証や聞込みなど、その後の経過を伝えてきたことは、電話のやりとりで察していた。 「寝室以外の場所というと、隣の座敷や、長廊下に母屋《おもや》なんかですか」 「それと、錠の外れていた木戸の付近から庭まで綿密に調べたそうだけど、血痕や足跡などは発見できなかった。従って、血痕を辿《たど》って犯人の出入りを突きとめることは望めないみたいね」 「それにしても、被害者があの状態では、犯人も相当な返り血を浴びていたはずですね。最初に検事さんがいわれていたように」  逆三角形の顔に黒縁眼鏡を掛けた桜木は、見かけに似合わず、中身はスポーツ好きで生活エンジョイ型の現代青年である。夕子とコンビを組んで一年半になる今では、上手に彼女のペースに合わせながら、それなりにまた仕事を愉《たの》しむ呼吸を身につけてきたようだ。 「そうなの」と、夕子は満足の面持《おももち》で頷いた。 「そこで臼井警部も、血の付いた衣類などがあの敷地内に隠されてないかどうか、この点も徹底的に調べたらしいわ。もちろん拝殿の中まで検めた。敷地内に限らず、犯人が外に捨てたり、一時的に隠した可能性もあるので、周辺の捜索は目下も続けているけど、まだ発見されていないという状況……」  柏木美輪が泊った客殿の部屋を見て回った時、夕子は一応その疑いを意識していた。寝室のロッカーの中に吊《つる》してあった四枚のドレスに、夕子はそれとなく目を光らせたが、ワインレッドやオレンジ系の花柄《はながら》、シックなグリーンなどのどれも濃い色の服には、あやしい汚れや洗ったような跡を認めることはできなかった。  臼井の話では、その後もう一度捜査員が美輪の了解をとった上で、室内と彼女の所持品をつぶさに調べたが、血痕の付着したものなどはいっさい見つからなかったという。  光教と、母屋や別棟《べつむね》に住んでいる者たちについても、同じことが確認されている。 「内部犯とすれば、返り血を浴びた衣類をどうやって始末したかという疑問が残るわけですね」  桜木は窓の下にひろがる日比谷公園の緑にちょっと眩《まぶ》しそうな目を投げた。 「逆に外部の人間の犯行ならば、通用口の鍵《かぎ》の問題がクリアされなきゃならない。あるいは内部に共犯者がいて、犯行後に内側から表か裏の通用口の錠を下ろしたか、もう一つ考えられるのは当然——」 「外部犯の手掛りは一つ挙っているのよ」  夕子のかん高い声が、桜木のソフトな呟きを遮《さえぎ》った。 「近所の聞込みで一つわかったことは、昨夜明鏡殿の裏側の塀《へい》に寄せて、赤のプレリュードが駐《と》まっていたんですって。目撃者は五百メートルほど離れたマンションに住んでいる学生で——」  友だちの下宿で麻雀《マージヤン》をやり、昨夜十二時半から四十分の間くらいに自転車で通りかかった学生が、その車を見憶《みおぼ》えていた。宏神会の車ではなく、近所の家々に訊《き》いても、どこでも心当りはないという返事なので、車の持ち主の割り出しを急いでいるとの話だった。 「ナンバーもわかっているんですか」 「いえ、そこまでは無理よ。目撃者の学生も、その時はなんとも思わずに通りすぎているんですもの」 「それじゃあ、持ち主を割り出すといっても……」 「私は、間もなく浮かぶんじゃないかと思うんだけど」 「だって、赤のプレリュードなんて、都内に何千台あるかわからないんですよ」 「ええ……でもね、この事件はそういう展開になっていくような気がするのよ。なんとなくね」  夕子が「なんとなく」という時も、実は何らかの根拠があることを、桜木は経験で知り始めている。  夕子の予測は、事件の三日後になってようやく形を現わしてきた。彼女はもっと早いつもりでいたらしく、報《し》らせが入るまで、内心で首を傾《かし》げたり、ジリジリしている気配が桜木には感じられた。  十月十一日木曜の昼まえ、夕子にとっては久しぶりの感じで、臼井警部から電話が入った。 「昨夜、本部に電話のタレコミがありましてね。教主は生前、大賀八千代というシンガー・ソングライターの女と親密にしていた。彼女は今年の夏、宝塚の別荘に教主が滞在中、お忍びで遊びに来たことがあると——」  殺人などの重大事犯では、検事が警察捜査の段階から関与して、適切な助言や意見をのべることが原則とされている。そのために現場へも臨場するわけだが、実際にはほとんど警察任せで、やがて犯人が送検され、事件が自分の担当になるまでタッチしない検事と、反対に捜査経過を逐次報告させ、捜査会議にも頻繁《ひんぱん》に顔を出して、いささかうっとうしがられるタイプとがある。  夕子は断然後者だし、そのことが知れ渡ってもいたから、臼井も目ぼしい進捗《しんちよく》があればさっそく知らせてくるのである。 「宏神会の信者だといって、関西弁のかなり年配らしい女性の声だったそうですが」 「年配の女性がシンガー・ソングライターといったんですか」 「いや、それは別のいい方をして、教主さまのお名前に疵《きず》をつけるようなことは外部に洩《も》らしたくなかったが、犯人がまだ挙らないので捜査の参考までに、と断っていたということです。ぼくが直接電話を聞いたわけじゃないんですが。——さっそく宝塚の別荘に問合わせると、ちょうど電話の女性くらいの六十年配の管理人のおばさんがいましてね……」  別荘は宏神会の所有で、教主や教団の幹部が時折利用するものだった。管理人の女性に臼井が電話で尋ねたところ、今年の五月と八月の二回、教主が一人で滞在していた折、大賀八千代が夜遅く自分の車で訪ねてきて、泊っていった事実を認めた。関西でコンサートがあった帰りらしい様子だったという。臼井は、実は管理人の女性がタレコミをしたのではないかと当りをつけて訊いてみたが、相手は否定していた……。 「念のため、最初の電話を聞いた署の捜査員と、本庁の者との二人を宝塚へ出張させて、直接話を聞くようにしています。一方こちらでは大賀八千代を内偵《ないてい》した結果、彼女は宏神会の長年の信者で、赤いプレリュードを乗りまわしていることも判明したんですよ」  臼井の声が最初から威勢がよかったわけだと、夕子は納得した。 「事件後三日目に、信者からタレコミがあったということですね」 「もちろんわれわれも鋭意聞込みを続けていたんですが、信者数が多い上に、少しでも教団の不名誉になるようなことは喋《しやべ》ってくれませんからねぇ。その点、宗教団体ってのはいつもと勝手がちがうんですよ」  臼井は多少ムキになっていい返した。  大賀八千代をめぐる捜査は、その後もたちまち進展した。  彼女は事件翌日の九日朝九時の飛行機で北海道へ発《た》ち、札幌《さつぽろ》と小樽《おたる》でコンサートをして、十一日午後の飛行機で帰京した。  彼女が仕事場を兼ねている池田山のマンションで捜査員が待ち構えていて、午後三時|頃《ごろ》帰宅した彼女にさっそく事情聴取を求めた。彼女はひどくうろたえて、態度が不審だったので、捜査員が任意の家宅捜索を行ったところ、鍵を掛けた洋服|箪笥《だんす》の隅《すみ》に、黒っぽい服がビニール袋に入れて押しこまれ、広げてみると裾《すそ》と袖口《そでぐち》に血痕と思われる乾いた汚点《しみ》が認められた。また、同じ洋服箪笥の引出しから、教団のマーク入りキイホルダーの付いた鍵が一|箇《こ》出てきた。何の鍵かと訊くと、八千代は「忘れてしまった」というようなあいまいな答えをして、ここでも激しい動揺を示した。  捜査員は黒い服と鍵を預かり、八千代に署まで任意同行を求めた——。  夕子が検察庁での仕事を終え、その日最後の被疑者が押送人《おうそうにん》に連れられて退室したのは、午後七時をすぎてだった。  夕子は桜木と別れて、検察庁の裏手に駐めてある自分の車のそばまで行った。事件以来の晴天が崩れて、午後から小雨が落ち始めている。  運転席に腰をおろすと、やはりこれから高輪署へ回ってみようと心を決めた。  第一京浜は雨のために渋滞がひどかった。  事件の起きた日、天沼と柏木美輪は芝公園にある宏神会東京支部からロールスロイスに同乗して、高輪の明鏡殿へ帰ってきたということだ。それは一応二人の間が円満であったことを想像させる。  息子の天沼光教と教主との関係はといえば、教主は必ずしも光教に満足してはいなかったようだ。光教がインテリぶって、教団に対して批判的、時には揶揄《やゆ》的な言動をとることが、しばしば教主を怒らせていた。従って、光教が最初にのべていた、教主が自分の仕事を早くも彼に譲ろうとしていたなどというのは、いたって眉唾《まゆつば》な話だ。——これは臼井警部らが教主の側近たちから聞き集めた情報による観測だった。  とはいえ、光教が父親を殺害するほどのさし迫った動機も浮かんではいない。カリスマ的教主を失えば、巨大な教団運営が多難になることも目に見えていただろう。  美輪にも光教にも、動機が薄弱なのである。とすれば、二人が共犯で、互いのアリバイを偽証しあっているとも考えにくい状況であった。  やはり犯人は外部から侵入したのだろうか?  内部犯であれば、表か裏の通用口の錠を外しておくほうが自然なのに、と、夕子は最初から思っていた。そうすれば当然、外部にまで疑いを拡《ひろ》げることができた。  もし、犯人があえてそれをしなかったのだとすれば、その結果かえって内部犯の見方を弱め、おまけに遠からず外部犯の手掛りが浮かぶという自信があったからではないか?  夕子の予測は、三日後にタレコミという形で現われた。  しかし、本当に信者の一人からの情報提供でなかったともいい切れないのだし……。  考えつめているうちに、車は高輪署の前に近付いていた。  夕子はもう署内で顔が売れている。  勝手知った足取りで捜査本部に充《あ》てられた部屋のほうへ歩いていた時、すぐ先の廊下の角から、婦警に付添われた若い女が姿を見せた。ウエーブのついた茶色の長い髪、ヤング風の黒っぽいパンツの上にグレーのジャケットを羽織っていた。  女も夕子の気配を感じて足を止めた。顔立ちは理知的なほうだが、ぽってりした口許《くちもと》が愛らしく見える細面《ほそおもて》をこちらへ向けた。  視線がぶつかった瞬間、夕子は思わず「あら」と口に出した。 「そうか。あなただったのね」  夕子は独り言を呟《つぶや》いた感じだったが、独特のよく通る声は相手の耳に届いたらしい。隙間《すきま》をあけて眉の下まで垂らした前髪の間から覗《のぞ》くように、彼女は夕子を凝視《みつ》めた。 「検事さん、お知合いですか」と、ベテランの婦警が戸惑ったように訊いた。 「いえ、名前と顔とが繋《つな》がらなかったのよ。主人がレコードを買ってきて、ジャケットを部屋に置いてるので、写真の顔は無意識に憶えていたのだけど……」  夕子の夫は谷中の寺の住職だが、カラオケが趣味で、檀家《だんか》の人に誘われれば気楽に浅草あたりまで出掛けてしまう。歌にもだいぶん自信があるらしいが、日頃|読経《どきよう》で鍛えているのだから、多少発声がよいくらい不思議はないのだと、夕子は納得している。家にカラオケセットを備えることだけは、近所の手前自重していたが、代りに彼はしばしばレコードを買ってきて、その中には大賀八千代も含まれていた。  夕子は思わず苦笑したが、それ以上はさすがに口をつぐみ、婦警に、行くようにと目で合図した。八千代は事情聴取の途中で、手洗いへでも立った帰りだろう。  レコードのジャケットでは男を魅《ひ》きつけるようなどこか謎《なぞ》めいた笑顔が、今は蒼《あお》ざめて憔悴《しようすい》していた。    7  翌朝の九時十分前、出勤したばかりの夕子の部屋で内線電話が鳴り、桜木が先に取った。やがて彼は、受話器を傍《かたわ》らに置いたまま、鼻腔《びこう》を膨らませた表情で夕子に近付いてきた。 「大賀八千代がぜひ霞検事に面会したいといって、階下《した》へ来てるんだそうです。また警察へ行く前に、検事さんに直接話を聞いてほしいと……」  さすがの夕子も虚を衝《つ》かれた思いがした。大賀八千代は昨夜十時まで、高輪署でかなりきびしい聴取を受けた模様だ。彼女のマンションで見つかった黒いワンピースの裾と袖口に付着していた汚点《しみ》は、やはり血痕《けつこん》で、しかも天沼道暢と同じ血液型であったこと、教団マークのキイホルダー付きの鍵《かぎ》は、明鏡殿の裏の通用口の合鍵であったことなどが判明したと、夕子は署で臼井から聞いた。桜木事務官も指摘しかけていたが、やはり外部に合鍵を持った人間がいたわけだ。  昨夜夕子が高輪署へ立ち寄った頃には、すでに八千代は有力容疑者と目されていた。が、いくら夕子が熱心でも、署での取調べに検事が加わることはまずありえないので、臼井から詳しい経過を聞いただけで引きあげてきた。  夕子が谷中の自宅へ帰り着くのを待っていたように、臼井から電話が入った。大賀八千代は依然犯行を否認しているが、状況証拠は十分なので、今夜中に逮捕状を請求したいと思うがどうかとの相談だった。夕子は、八千代が自供するか、いま一つ決定的な証拠を掴《つか》むまで待ったほうがいいと答えた。彼はその助言に従って、十時すぎにはいったん八千代を帰したが、今日はまた朝から彼女を喚《よ》んで調べるつもりだろう。 「それにしても、彼女はどうして検事さんのことがわかったんでしょうかね」  桜木は首をひねっているが、八千代はおそらく高輪署の婦警か誰《だれ》かに、夕子の氏名と立場を聞き出したものにちがいない。 「しようがないわねぇ。異例のことだけど、まあ一応会ってみましょうか」  三階の一方面主任の部屋まで上ってきた大賀八千代は、いっとき珍しそうに、コの字型にデスクの並んだ室内を見回した。ドア寄りには、新任検事と主任捜査事務官のデスクが左右にあるが、通常被疑者や参考人の取調べが始まるのは午前十時頃なので、彼らは送致書類に目を通していた。八千代を一瞥《いちべつ》しただけで、ことさら無関心な顔をしている。  桜木が八千代を、窓を背にした夕子の席の向かいに掛けさせた。 「昨夜はどうも……警察で検事さんとお会いできたのも、何かのご縁だったんじゃないでしょうか。私、はじめての方でも、なんかテレパシーみたいに、その人の心が見通せることがあるんです。霞検事さんなら、きっと私の話をまともに受取ってくださると思ったもんですから」  昨夜はまた署へ出掛けたのかと、桜木が呆《あき》れたような横目を夕子に投げた。  八千代はわずかに斜視の目をこらして、ふいに堰《せき》を切ったように喋《しやべ》り出した。わざとボサボサにしたような細かいウエーブの長い髪に囲われた顔は、茶がかったきれいな眸《め》、細い鼻、ぽってりとした唇《くちびる》が形よく配置されて、歌手としてはかなり美人のほうだろう。柏木美輪のほうがもっと整ってはいるが、二十年くらい前、可憐《かれん》な人気女優だった頃の彼女と印象が似ているようだ。が、八千代は八千代で、またどこかエキセントリックなムードを発散させる女だった。 「それは、途中で供述を翻《ひるがえ》したのが、警察にすごく不利な心証を与えてしまったことは、自分でもわかってますわ。でも、私は真実、事件とは直接関係がないんです。神さまに誓って、二度と嘘《うそ》は申しません」  齢《とし》の割に、「神さま」などということばが自然と口に出るのは、さすがに宏神会の信者だからだろうか。彼女は、警察で最初、天沼道暢とはいっさい個人的付合いはなかったと否認していた。が、血痕と合鍵の証拠を突きつけられると、シラを切り通せないと悟ったのか、約一年前から教主に目をかけられ、今年の春頃から肉体関係を持っていたことまで認めたそうである。 「事件の夜はどうしていたわけ?」  夕子は臼井から、八千代の供述を逐一聞いていたが、あまり知らないふりで尋ねた。 「あの晩は十時四十分頃、マンションへ教主さまのお電話をいただきました。その二日前にも、箕面の大本部からご連絡があったのですけど。十二時半頃、高輪のお屋敷に来るようにとのおことばでしたので、私は自分の車を運転して、お訪ねしました……」  明鏡殿の塀《へい》の裏側に赤いプレリュードを駐《と》め、合鍵で裏の通用口を開けて入ったという。 「合鍵ですか? それは、教主さまが東京へおいでになるたびにお目にかかるようになってから、教主さまにもともとの鍵を渡されて、私が町で拵《こしら》えました。人目につかない深夜にでも自由に出入りできるようにと、教主さまがお心を遣ってくださいましたのです」  八千代はさして気後《きおく》れするふうもなく、歌手らしい耳に快い声で話した。  教主の離れには、ちょうど十二時半に着いた。拝殿の後ろを通り、錠を外してあった裏木戸から座敷へ上って、寝室をノックした。返事はなかったが、教主は眠っているのだろうと思ってドアを開けたところ——血の海の中で倒れている教主を発見し、とりすがって身体《からだ》を揺すったがすでに絶命しているとわかると、夢中でそのまま逃げ帰ったと、八千代は臼井に供述したとほぼ同じ内容を夕子に話した。 「どうして逃げたんです? すぐに人を呼ぶのがふつうではないのかしら?」 「ええ、もちろん……一度は母屋《おもや》のほうへ走りかけたのですけど……真夜中に私が寝室で教主さまの死体を見つけたというのでは、教主さまのお立場に疵《きず》がつくような気がして……」 「理由はそれだけですか」 「あの……母屋のほうにはご長男の光教さまも泊っていらっしゃると伺っていましたし……」 「……?」 「つまり、その、現場をもう少し整えてから、警察にお届けになるのではないかとも考えて……」 「ああ、なるほど。新興宗教の教主が無残に刺殺されていたというのでは、信者に対してなんとも示しがつかないですものね。だけど、あなた自身のことだって考えたわけでしょう?」 「教主さまと教団のために……それがいちばん大きな理由でしたわ。それとまあ、私も世間に対して、イメージってものがありますから……」  八千代は案外素直に認め、唇を噛《か》みしめてうつむいた。 「宏神会の教主と関係があったなんてことが世間に知れたら、シンガー・ソングライターとしてのあなたのイメージにも疵がつくということ?」 「ええ、まあ……今の仕事を続ける限りは……」 「でも、あなたは二十歳代から、宏神会の熱心な信者だったんでしょう? それなら、教主ととくべつな間柄《あいだがら》であることを人に知られても恥かしくないはずじゃないの?」 「もちろん私は、宏神会の信者です。作曲のためにピアノに向かう時や、ステージに立つ前には、必ず『かみなずみ』と唱えて、お祈りしています。私自身は、とても信仰に支えられているんです。だけど、そのことと、世間のファンが私に抱いているイメージとはまた別ですもの」 「そんなものかしらね」 「そうですわ」  八千代は口許を引き締め、鋭く冴《さ》えた眼差《まなざし》で夕子を見据《みす》えた。 「私が自分の仕事で成功することは、宏神会の大神さまのお心にかない、教団のご恩に報いることなのです。ですからそのために、私は教主さまや教団との結びつきを世間に知られないようにして、ファンの好むようなイメージを身につけておかなければならなかったのです」  確かに、新興宗教の信者だとわかれば、主に若いファンに支えられている大賀八千代の人気には、決してプラスにはならないかもしれない。とはいえ、彼女の言い分もずいぶんと都合のいい理屈だと夕子には思えるのだが、八千代自身はみじんも矛盾や疑いを抱いてはいないようなのだ。 「とにかく結果的に、あなたは事件を通報せずに現場から逃げ去った。帰りがけにまた裏門の鍵を掛けたのですね」 「ええ……夢中だったので、はっきり憶《おぼ》えてはいないんですけど」  池田山のマンションへ帰り着いた時は、午前一時十五分|頃《ごろ》になっていた。血の付いた服と合鍵をすぐ処分したほうがいいのだが、部屋へ入った途端に身体中の力が抜け、その場にすわりこんでしまった。教主と自分との間は誰にも気付かれていないはずだから、捜査が開始されても、自分が容疑者として浮かぶ恐れはないだろうし、まして、自分が今夜教主の寝室を訪ねたことなどは誰一人知らないのだ。それならば、服と合鍵はひとまず洋服|箪笥《だんす》の奥へ隠し、北海道公演から帰ってから処理しても十分間に合うと思った。  そのままベッドへ倒れこみ、九日朝は六時に起きて空港へ向かった——。 「これがありのままの事実なんです、何よりも教主さまの名誉のために、私が現場をそのままにして帰った気持を、検事さんならきっとわかってくださると信じて、直接お話しに来たんです」  夕子は小さな吐息をついてから尋ねた。 「あなたは、教主さまが好きだったの?」 「心から尊敬していました」 「愛してはいなかったのかしら?」 「そんなこと……勿体《もつたい》なくて、考えたこともありません」 「でも、それならどうして教主さまと関係を持ったの?」 「だって、教主さまがお望みなら、どんなことでも従うのが当然ですから。それと……実は私、とくべつの間柄になって間もなく、教主さまから大事なご相談をお受けしていたのです」  八千代は夕子に顔を近付けて声をひそめた。 「……?」 「教主さまは私に、参議院のつぎの改選で、教団推薦として立候補するようにお勧めくださっていたのです」 「あら、だって、柏木美輪議員が三選を目ざして出馬するはずではなかったの?」  八千代は表情をきびしくして首を横に振った。 「ご本人はそのつもりですし、教団内部でもみんなまだそう思っているようです。でも、教主さまにはもう、柏木さんを推すお気持はなかったのです。あの女は信心が足りない、だから、政界に慣れて、ちょっと羽振りがよくなってくると、たちまち教団の恩義を忘れて、思い上った行動をとるようになるのだ。第一、これからの教団推薦候補は、お前のように新鮮で、若い信者の期待を担《にな》うものでなくてはいけない……」  これはまだ臼井からも聞いていないことだった。 「それで、あなたはどうするつもりだったの?」 「しばらく考える余裕をいただいてました。教主さまも、よく思案しなさいとおっしゃってくださいました。ただし、はっきり決まるまでは、誰にも喋らぬように。教団内に無用の混乱や動揺を起こしてはならないからと……」 「いつまでに決めることになっていたんです?」 「それが、もうお答えしなければならない時期に来ていたのです。選挙は再来年《さらいねん》ですけど、来年三月までには国民党に推薦候補者の名前を届けるのだそうで、そのためには十一月十五日に大本部で開かれる政治部会で、一応教団内部の承認を得なければならないから……」 「あなたの決心はついていたの?」 「はい。教主さまのおことばは絶対です。よろこんで政界に出馬させていただくつもりでした」  八千代は心なしか胸を張るようにして答えた。 「警察でもそのことを話したんですか」 「いえ、昨夜は……みんなが私を犯人だと決めてかかっているみたいで、そんなことをいっても、とても信じてもらえるムードじゃなかったから。でも、検事はクロの捜査もシロの捜査も公平にやると、何かの本で読んだ憶えがありました。それに、霞検事さんなら親しみが持てて、話しやすい方《かた》だってことが、一目見ただけでわかりましたし……」 「つまりあなたは、教主から内々に立候補を勧められ、自分もその気になっていたというわけなのね」 「ええ、その通りなんです。ただそれが、周囲の誰にも知られていなかったというだけで——」 「だけど、そうなると、シンガー・ソングライターとしてのイメージってやつはどうなるわけかしら。教団推薦で立候補すれば、あなたが宏神会の信者であることが全国に知れ渡ってしまうでしょ。すると、ファンがあなたに抱いているイメージを裏切ることにはならないの?」 「その時はもう気にすることはないんです」  八千代は驚くほどサラリと答えた。 「立候補する時には、歌手をやめてもかまいませんから。私たちの人気も、なかなかそう長続きはしませんので、再来年あたりがちょうどいい潮時でもあるんです」 「……」 「議員になったら、私は誰|憚《はばか》らず宏神会の信者だと名乗れますし、表も裏もなく、教団のお役に立つつもりでした。それが私の理想の生き方なんですもの。——ねぇ、検事さん、わかってくださるでしょ。誠心誠意教団のためを思っている私が、こともあろうに、あれほど無残に教主さまのお命を奪うなんて、そんなことができるはずはありません。検事さん、お願い、信じてください!」  大賀八千代はいきなり夕子の手を力一杯握り、ドラマチックな声をあげてその上に泣き伏した。    8  霞夕子が千代田区永田町の参議院議員会館に柏木美輪を訪れたのは、翌十月十三日土曜日の午後一時四十五分だった。  柏木美輪は現職の国会議員だけに、捜査本部としても、彼女の取扱いには慎重を期さなくてはならない。そう頻繁《ひんぱん》に刑事が訪ねていって事情聴取したり、まして署へ呼びつけるのは憚られるのである。  そのへんを見越した夕子が、個人的に意見を聞きたいというニュアンスで、アポイントメントを取りつけた。今は国会の会期中ではないが、柏木美輪はその日、議員会館の自分の事務所へ出てくるそうだ。二時からは派閥の会合のために外出するので、その前の十五分くらいならと、夕子の電話には案外愛想よく応じた。 「ほんとうに、一刻も早く事件を解決していただかなくては。警察は何をしているんでしょう。私のほうから検事さんのご意見を伺いたいくらいでしたわ」  美輪の機嫌《きげん》がいいのは、光教と彼女とのあやしげな関係がマスコミで騒がれることを押さえるのに、どうにか成功しているからではないかと、夕子には想像された。宏神会としては、教主が刺殺されるという大不祥事が明るみに出て、収拾策に右往左往しているらしいが、それはともあれ、光教が三代目教主を継ぐことには変りなさそうだ。その点も、美輪の思惑通りに事が運んでいるのではあるまいか。  夕子はといえば、土曜日にはふつう午後二時頃まで検察庁で仕事をしているが、その日は一時半に切りあげて、霞が関から永田町へ向かった。車なら五分とかからぬ距離である。  低気圧が通過して、いちだんと涼気をたたえた風が、都心の高みに建つ議員会館のひろやかなロビーへ流れこんでいた。  面会人の受付で、夕子は面会証に議員名と自分の氏名、面会時刻などを記入した。それを受取った女性が、柏木議員の部屋に内線電話を入れる。すぐ了解の返事が得られたらしく、女性が面会証に印を押してくれた。  夕子はエレベーターで三階へ上った。  名札の掛っているドアをノックすると、秘書かと思われるライトブルーの背広の若い男性がそれを開けた。彼の後ろには、デスクやキャビネットの並ぶ狭い部屋があり、ほかにも若い男と女の姿が見えた。 「霞ですが」と夕子が簡単に名乗った時、狭い部屋の奥にあるもう一つのドアが開いて、中年から初老くらいの男たちが四、五人現われた。柏木議員の華やかな声が彼らを送り出している。男たちは秘書らにも腰の低い挨拶《あいさつ》をして、廊下へ出てきた。関西|訛《なま》りの口調で声高に喋《しやべ》りながら、エレベーターのほうへ歩み去った。地方からの陳情組にちがいないと、夕子は推察した。  替って夕子が奥へ通された。主任検事の取調室よりまだ狭い四角な部屋だが、明るいガラス窓の向うには、隣の衆議院議員会館の一部と、永田町から赤坂にかけての白っぽい建物の群が眺《なが》めおろされる。その窓を背にして、焦茶《こげちや》のスーツにベージュ色のブラウスというシックな装いの柏木美輪が、にこやかに夕子を迎えた。肥満気味を意識してか、彼女はいつも収縮カラーの濃い色を身につけている。愛想はいいが、どこかで威厳を誇示しているような笑顔でもあった。 「お忙しいところをお邪魔して恐縮ですわ」 「いえいえ、まあどうぞお掛けになって」  美輪はソファを勧めて、自分も向かいあって腰をおろしながら、テーブルの上に置かれたままの「請願書」と印刷された小冊子をさりげなく脇《わき》へどけた。 「今のお客さんは公立病院関係の団体役員の方たちでね。公立病院はどこでも経営赤字が大変なものですから、国の財政援助の積み増しを私に陳情してこられましたの」 「……」 「公立病院の経営がうまくいかなくなると、どうしてもお年寄りの医療に皺寄《しわよ》せがいきますでしょう。私が日頃から生涯《しようがい》福祉、わけても老人福祉に、ほかの誰《だれ》よりも力を注いでおりますことは、みなさんがご存じなものでね」  女性秘書がさっそくお茶を運んできた。 「すると、先生はやはり、つぎの参院選にもお出になるおつもりなんですね」 「それはもちろん。先日も申しあげたように、つぎの改選でも教団は当然お前を推薦するから、今後もいよいよ励むようにと、それが私に対する教主さまの最後のおことばだったのです」 「ええ、それは伺いましたわ。そうすると、今度の選挙では、宏神会から二人候補者を出すおつもりだったんでしょうか」 「え?」と、美輪は一瞬神経を尖《とが》らせたように眉根《まゆね》を寄せた。また少し表情を緩めながら、 「ご存じの通り、参議院は三年に一回、半数ずつ改選が行われますわね。宏神会ではその都度一人、私たちの言い方では、裏表で二人の議員を国会へ送っていますけど、一回の選挙では、候補者は一人と決まっています」 「二人立ててもいいわけでしょう?」 「でも、それは無意味なことなんです」  美輪は、事情を知らない夕子にいって聞かせるような口調になった。 「教団から二人も立てば、どうしても票が割れてしまいますね。比例代表制ですから、そうなれば党本部で、たとえ候補者名簿にはリストアップしても、二人とも当選圏内に順位づけしてくれるということは望めません。ですから結局二人目は当選できないことになります。私は比例代表制の選挙をまだ経験してませんけど、昨年の選挙で宏神会推薦の男性候補が立った時には、教団の集票能力からして八十万票は固いと踏んで、党では名簿の十五位に付けてくれまして、無事当選したわけなんです」 「八十万票あれば、一人出られるんですか」 「まあ、七十万から八十万が最低といわれてますけど」 「それなら、候補者を二人くらい出しても大丈夫なんじゃないですか」 「……」 「だって、宏神会の信者数は三百万人と聞いていますから、その人たちがみんな投票したら……」 「でも、全員が有権者ではありませんよ」 「代りに、信者以外の人だって全然入れないってもんでもないでしょう?」  美輪は軽く顎《あご》を突き出して、いっとき計るように夕子を眺めたが、ふと、妙に馴《な》れあいめいた笑いで口許《くちもと》をほころばせた。 「いえね、検事さん、打ち割った話をいたしますとね、どこの教団でも、公称の信者数と実際の数とには、ある程度開きがあるものなんですよ。極端なところでは、実際の五、六倍もの信者数を公表してるそうですけど、宏神会はもっとずっと良心的です。それでも、本当に三百万人いるかどうかは……ちょっと切れるかもしれないんですよ」  ちょっと切れるどころか、一人の候補者でやっと八十万票集まる程度の数なのだろうと、夕子は納得した。 「それで、表向きは信者数二百万なんて教団でも、自力で一人の候補者を立てられないところもあるわけですよ。そういう場合は、二つか三つの教団が合わせて一人の推薦候補を出したり、時にはよその企業と組んで……」  美輪は話題を一般論に移そうとしていたが、夕子はひとしきり耳を貸してから、 「でも、そうすると、教主はどういう計算をしてらしたんでしょうねぇ」 「計算……?」 「柏木先生は、大賀八千代さんて方をご存じですか」  美輪は窓の外へ顔を逸《そら》して、ちょっと首を傾《かし》げた。 「お名前は聞いたことがあるみたいだけど……」 「宏神会の長年の信者で、目下人気の高いシンガー・ソングライターだそうです」 「その方が、何か?」 「これはまだ報道関係者にも公表されていませんので、柏木先生にもご内聞にしていただきたいのですけど、捜査本部では彼女を参考人として、事情聴取を始めているんです」  実はすでに一部の新聞が嗅《か》ぎつけて、彼女の実名は出さずに、それらしいことを報道していた。捜査本部も間もなく公表せざるをえなくなるだろう。 「話の様子では、大賀さんは教主と個人的に親密な付合いがあって、最近教主から、つぎの参院選に立候補するようにと勧められていたというんですけどね」 「まさか」と、美輪は一笑に付す顔だが、頬《ほお》のあたりがにわかにこわばっていた。 「でも、まったく根拠のない話でもなさそうなんですよ。それでまあ、一度柏木先生のご意見を伺ってみようかと考えたわけなんですけど」 「ありえないことですわ」  美輪はほとんど厳《おごそ》かな声で答え、表情を引き締めて頭《かぶり》を振った。 「比例代表制の実情は、今お話しした通りですし、教主さまのお気持にも少しも変りはなかったのです。きっとその大賀さんて方は、ご自分から教主さまに、そんな希望を申しあげていたというだけではないのかしら」 「その逆のケースは考えられませんか」 「逆って?」 「たとえば教主が、大賀さんをご自分の身近へ引き寄せるために、望みとあらば政界へ出してやってもいいと匂《にお》わせていらしたとか……?」 「まさか教主さまが……でもまあ、ことばのはずみってこともあるかもしれませんけど……」 「ところが教主は、そんなつもりはなかったので、彼女が約束がちがうといって怒り出して、険悪なムードになったとしたら……?」 「大賀さんは容疑者に挙げられているんですか」 「いえ、今の話はここだけの仮定にすぎませんけど……それに、外部犯とするには、まだ未解決部分が残っているんです。門の通用口の問題がクリアされませんとね」 「表も裏も、内側から錠がおりていたんですね」 「その通りです。古い鍵《かぎ》が二つまとめて、母屋《おもや》のキッチンの柱に掛けてあったんですけど、日頃《ひごろ》明鏡殿が無人になる時はないので、長年その鍵は誰も使ったことがなかったそうです。外部に犯人がいるとしたら、その犯人は戸締りされた扉《とびら》をどうやって開け、また錠をおろして逃走することができたのか。当時邸内は密室状態だったわけですから、その点がはっきり解明されない限り、やはり内部の人に目を向けるほかはないのですよ」  夕子は思案顔で、しげしげと美輪を眺めた。  何秒かののち、夕子の視線に促されたように、美輪が口を開いた。 「だけど……もう少し単純に考えてみたら……」  かすかに迷いのからむ声だった。夕子はすかさず問い返す。 「単純とおっしゃいますと?」 「ですから、たとえば、合鍵を使ったとか……」 「合鍵ねぇ」  そのことばが美輪の口から出たことに満足な面持《おももち》で、夕子はゆっくりと反復した。大賀八千代が合鍵を持っていたなどのことは、まだ外部には洩《も》れていない。 「それは考慮されないでもなかったんですけど、つぎは誰がどうやって合鍵を手に入れたかの問題ですね。警察では光教さんをはじめ、明鏡殿に住んでいる人たちを一人々々徹底的に洗ったのですが、彼らのうちの誰かから、何者かがもともとの鍵を借りうけて合鍵を作ったというような背後関係がどうしても浮かんでこないのです。残るは教主ご自身ですけど、まさかねぇ……それで結局捜査の焦点は、また内部犯に逆戻《ぎやくもど》りしてしまったんですよ。内部犯とすれば、動機がポイントです。でもいずれそれは、粘り強い聞込みによって、明らかになるでしょうけれど」  ゆるやかなテンポの喋り方は、こんな時かえって相手に、じわじわと迫るような効果を持っていた。またしばらく夕子が黙っているうち、美輪の顔面に、しだいになんともいえない焦燥が浮かび出た。つぎにはけんめいに思考をこらし、やがて決断すると、美輪は思いきった意見をのべた。 「でもね、検事さん、教主さまが絶対に合鍵をお作りにならなかったと、百パーセント断定できるものでしょうか。いえ、これも私の単純な想像ですけど、教主さまはご自分の寵愛《ちようあい》する女性が人目につかない時間に訪ねてこられるよう、彼女に門の合鍵をお与えにならなかったとも限りませんわね」 「ああ、そんなふうに考えてもかまわないんですか」  夕子はホッとしたように口許をほころばせた。 「つまり、教主とて人間の男であると?」  美輪は、自分の考えに捉《とら》われてその問いが聞こえないような顔で続けた。 「そしてもし、合鍵を持っていた女が犯人だったとしたら、当然彼女はまた門の鍵を掛けて逃走したでしょう。そうすれば、事件は内部の人間の仕業《しわざ》と見做《みな》されるに決まっています。だって、教主さまが外の女に合鍵をお与えになったなんてことは、誰一人知らないはずですからね」 「確かに、先生のおっしゃる通りだと思いますわ」  夕子は力をこめて同意した。そのあとは、遠くを見るような眼差《まなざし》を宙に注ぎ、やはりおっとりとした声でつけ加えた。 「ほんとうに、生き神さまとあがめられる教主たるお方が、好きな女に屋敷の合鍵を持たせるなんて、そんな粋《いき》なこと、実際にそれを経験した女性ででもない限り、とうてい思いもつかないでしょうからねぇ」    9 「柏木美輪と大賀八千代は、全体的にはよく似たタイプの女性だと感じましたね。勝気で自信満々、それだけに自己主張や自己顕示欲といったものも人一倍強いみたい」  二人に直接会って話した印象を、夕子はそんなふうにいった。十三日の夕方、臼井警部のほうから地検を訪れてきた時である。 「二人とも美人で、大賀さんは、若くてもっと痩《や》せてた頃の柏木さんにどこか似てる感じだし」 「男は何人と浮気《うわき》しても、相手はみんな似たようなタイプだともいいますからね。要するに天沼教主は、タレント議員に向いてるような女が好みだったんでしょうな」  臼井は少々投げ遣《や》りにも響く口調で合槌《あいづち》をうった。検察庁へいわば直訴に来た恰好《かつこう》の容疑者の話を聞いてやったり、つぎには自分のほうから議員会館に乗りこむなど、勝手に動き回る夕子のやり方がいささか面白《おもしろ》くないのであろう。とはいえ夕子は、その結果を逐一捜査本部に伝えているので、臼井も表立って抗議を唱えるまでには至らなかった。もともとさっぱりした、磊落《らいらく》な性格でもある。 「それはともあれ、大賀を重要参考人として調べていることは、もうマスコミにも嗅ぎつけられて、彼女は記者たちに付け廻《まわ》されて、かなりまいっているようです。いっそ逮捕して、身柄《みがら》を拘束してしまったほうが、落着いてすべてを自供する心境になるんではないかとも思うんですがね」  彼が地検へ来たのは、彼女を逮捕するかどうかの相談のためだった。逮捕に踏み切るには、当然公判を維持し、有罪をかちとるだけの成算がなければならないから、捜査責任者と検事との間で、その点はよく話合いが行われる。  夕子はすぐには答えず、まだ記憶をまさぐるように頬に指を当てている。 「——だけど、二人を比較してみれば、むしろ若い大賀さんのほうがクールで、常に計算に基いた行動をとっているみたいに見受けられましたね。たとえば、シンガー・ソングライターでいる間は、宏神会の信者であることをなるべく人に知られないようにする。人気がそろそろ下火になる時期を見越して、政治家に転身、その時には信者の立場をフルに利用しようというつもりだったらしいから」 「しかし、客観的に見て、教主が二人の推薦候補を立てる気でいたとは考えられない。とすれば、やはり大賀は騙《だま》されていて、そのへんから争いが生じたんじゃないですか」 「でもそれだけで、大賀八千代が教主を殺したかしら。計算の行き届いた彼女にしては、どう見ても危険で割の合わない犯罪だわ」  臼井が渋い顔で腕を組んだのは、彼にもいま一つ、大賀の動機に弱いものが感じられるからなのだ。 「つまり、二人のうちのどちらかが嘘《うそ》をついているわけでしょう?」  夕子は軽く上体を揺らしながら、思考をめぐらせた。 「教主が大賀に出馬を勧めたというのが嘘か、それとも、つぎも柏木を推薦すると約束したというのが嘘か。もし、あとのケースで、教主が柏木を切り、大賀を立てると柏木に宣告したとすれば……彼女のほうがはるかに切羽詰った心境でしょうね。今さら芸能界へ戻るわけにもいかないんですから」 「彼女と教主との間が最近冷却してたんじゃないかという噂《うわさ》は、教主の秘書たちや教団幹部の間から、チラホラ出始めてはいますね。少くとも教主は、女としての柏木美輪には、すっかり興味を失っていたらしい。若くて贅肉《ぜいにく》のない大賀八千代のほうが魅力的に決まっている」 「でも、柏木議員には一応アリバイが成立しているわけでしょ?」 「ああ、その点もね、光教の供述が少々あやしくなってきているんですよ……」  天沼道暢の葬儀は十一月初めに大阪府箕面の大本部で行われる予定で、光教は事件後ほとんどそちらへ行ききりになっていたが、上京の折を見ては、臼井が直接彼に会って、事情聴取を重ねていた。 「事件発生直後には、内部犯の見方が圧倒的だった上、彼もまた必ずしも教主としっくりいってたわけではないので、自分の立場に不安を感じたんでしょうな。終始柏木と口裏を合わせて、自分自身のアリバイを確保しようとした。ところがその後、大賀八千代が浮かんで、外部犯の可能性が有力になってきた。自分も教主とさほど深刻な確執があったというほどでもなく、まずすんなりと三代目教主を継げそうな形勢だ。やれやれと落着いてみると、なるべく自分の身辺をクリーンにしておきたいと考え始めたんじゃないですか」  あの晩美輪の客殿を訪ねたのは、そもそもは帰宅後儀礼的に彼女に電話を掛けたところ、彼女のほうからしつこく誘われたからだったのだ。自分はひどく疲れていたし、相当酒も入っていたので、ちょっとベッドに横になった途端、たちまち眠ってしまったから、十一時半か十二時前だったかもしれないと、前言を撤回し始めているという。 「でも、それにしては、翌朝はずいぶん寝坊したものですわね。パトカーは来るし、屋敷中大騒ぎになっているというのに」 「適当に切りあげて、母屋《おもや》の自室へ引き揚げるつもりだったのだが、よほど疲れていたんだろうと、本人は頭をかいているわけですが」 「そう……二人の関係でどちらが積極的であったにせよ、彼らが共犯者でない限り、光教さんは自室へ帰って寝《やす》んでいなければならなかったはずなんです。翌朝尾形さんたちが起き出す以前の時間に。光教さんのように、口では教団を皮肉ってみても、中身は案外小心な人なら、そうした点には用心深いはずだと思うんですけどねぇ。どうしてあの朝、女の部屋で九時過ぎまで寝過ごすというような……?」  夕子と臼井の視線が空間でぶつかり、つぎにはハッと緊張した空気がよぎった。 「しかしですね、柏木美輪を疑うには、物的証拠というものが何一つありません」  臼井は冷静に戻った顔で、口許《くちもと》を掌《てのひら》でこすった。 「とりわけ、犯人が相当な返り血を浴びていたと想像されることは、最初から検事さんが指摘された通りですよ。しかるに、美輪の衣類や持ち物の中には、血痕《けつこん》の付いたものは何一つ見つからなかったし、洗ったような形跡もなかった。どこかへ隠したとも、どうしても考えにくいのですよ。あの屋敷内と、周辺の一帯は、連日多数の人員を投入して徹底的に捜索したんですが、何も出てこなかったんですから」 「そうねぇ……私にもなんともいえないわねぇ」  その点に及ぶと、夕子からもとりたてて意見は出なかった。  間もなく臼井は腰をあげた。大賀八千代の取調べを続けて自供を促す一方、それ以外の関係者の捜査にも力を注ぐという、当面の方針が確認されたに留《とど》まった。  臼井が桜木にも挨拶《あいさつ》すると、 「それにしても宏神会では、教主のあんな異常な死に方を、信者に対してどう説明するんでしょうかね」  黙って二人のやりとりを聞いていた桜木洋が、はじめて口を挟《はさ》んだ。このところ、各週刊誌がこぞって、宏神会の困惑ぶりを揶揄《やゆ》的な記事にまとめている。事件とは別に、彼もそのへんに興味をそそられるらしかった。 「今から思えば、もう少しなんとか取り繕った形にして警察へ届ければよかったというのが、教団幹部の本音みたいですよ」  臼井も面白そうにいって、あげかけた腰をまた椅子に戻した。 「光教あたりも、ちらりと洩《も》らしてましたよ。あの朝自分が母屋にいなかったのが、返す返すも不覚だったなんてことをね。しかし、今となってはどうしようもない。そこで教団としては、教主がなぜ、誰《だれ》に殺害されたかという点にはいっさい触れず、とにかく教主さまの御霊《みたま》は明鏡殿の拝殿から昇天されたのだ、との一点張りで通すつもりらしい。これも光教から聞き出した話ですがね」 「あそこの、拝殿からですか」 「うむ。というのが、先代の教祖は、大阪の大本部にある神殿から昇天したと言い伝えられている。実際、亡《な》くなる前には神殿にこもっていたらしいからね。そこで二代目教主も、なるべくそれに似た恰好にしたほうが納まりがいいわけだ。ちょうどまたその種の噂が信者の間に広がり始めているらしいんですね。まあそれも、意図的に流した噂かもしれないんだが」 「どういう噂なんですか?」と、桜木が眼鏡を押しあげて訊《き》く。 「出所は明鏡殿なんだそうですがね。あそこの屋敷内に八十六歳になる巽という老人が寝起きしている。数年前脳出血で倒れて以来、身体《からだ》が不自由で、頭もだいぶん呆《ぼ》けているようだが、長年教団で働いてきた人なので、みんなが面倒をみている。それでも事件の二日ほどあと、捜査員が一応彼にも事情聴取したんですが、その時にはショックもあってか、ほとんど口をきかなかったということでしたよ」  ところがまたその二日後くらいに、彼が「教主さまの御霊が昇天されるのを見た」といい出した。身の回りの世話をしている守衛の山口の妻が問い返したところ、「あの晩自分は教主さまの声に導かれて起きていくと、白衣をまとわれた教主さまの白い影がすーっと拝殿に吸いこまれ、つぎにはその屋根から白い煙がたちのぼるさまをこの目で見た」と語った。  その話が、明鏡殿と東京支部に出入りする加藤運転手の口から、東京の信者間に広がり始めているというのであった……。  臼井が辞去したあと、九時を回った検察庁内は急にひっそりと感じられた。ほかの検事はとうに帰ってしまっている。  夕子は、肱《ひじ》をついた両手の上に顎《あご》をのせた疲れたような姿勢で、しばらく黙りこくっていた。桜木も先に帰ろうとはせず、そんな彼女を時々横目で見守っていた。  ふいに夕子が勢いよく桜木を振り向いた。 「ちょっと出掛けてみようか」 「ええ、ぼくもお伴《とも》しますよ」  彼には行き先もおよそ見当がついている。  白いパサートの助手席に彼が乗った。いつも現場へ駆けつける時と同様で、夕子の運転はしばしば制限速度をオーバーする。  高輪三丁目の暗くて閑静な坂道をのぼっていくと、やがて右手に黒々とした石塀《いしべい》が現われた。その内側には、拝殿の青瓦《あおがわら》屋根が聳《そび》え、菊の紋章に似たシンボルマークがほの白いライトに照らされて、夜空に浮かび出ている。 「あの屋根から、白い煙がたちのぼったというわけですね」と、桜木が呟《つぶや》いた。  扉《とびら》が閉ざされている正門を通りすぎた先の道路|脇《わき》に、車を寄せて駐《と》めた。  通用口の鍵《かぎ》は掛っていなかったので、それを開けると、傍《かたわ》らの小さな事務所から、守衛の山口が素朴《そぼく》な顔を覗《のぞ》かせた。  事件の朝、臼井警部の事情聴取をそばで聞いていた夕子の顔を、山口のほうでも憶《おぼ》えていたので、彼は丁重な態度で二人を迎え入れた。  夕子は、巽老人に会いたいと、来意を告げた。山口は様子を見てくるといって、西南の隅《すみ》にある古い平屋《ひらや》のほうへ歩き去った。  間もなく戻《もど》ってきた彼は、 「もう床《とこ》についてましたが、目は覚ましてるようです。昼でも夜でも、好きな時に寝たり起きたりしているんですよ。昔の記憶なんかも、急に思い出したり、また朦朧《もうろう》としてしまうらしいんですねぇ」  彼は庭の隅にある家まで二人を案内して、あとは彼の妻が老人の寝室へ請《しよう》じてくれた。  背の高そうな痩《や》せ型の老人が、布団《ふとん》の上で半身を起こしていた。頭髪はほとんどないが、謹厳に整った顔立ちで、両顎は銀色の髭《ひげ》に被《おお》われている。天沼道暢よりも彼のほうがよほど教主に似合う風貌《ふうぼう》だと、夕子は内心で思った。ただ、皺《しわ》に囲まれた二つの眸《め》は焦点がはっきりせず、灰色の膜の下でどんよりと曇っているように見えた。 「あなたは、教主さまの御霊が昇天されるところを、ごらんになったのですか」  夕子がゆっくりと尋ねると、老人はふいに眸を動かして、彼女を凝視《みつ》め返したようだ。 「そう、ここで寝ておりましたら、頭の中で、教主さまが儂《わし》をお呼びになるお声が聞こえたのですよ。巽……巽……さらばじゃ……と、お懐《なつか》しい教主さまのお声じゃった」  彼は自分の耳の上を指差し、渾身《こんしん》の力をこめたような声で答えた。 「儂は吃驚《びつくり》して、そこまで起きていった」  老人が脇息《きようそく》に肱をついて立とうとしたので、山口の妻が手を貸してやった。違い棚《だな》から障子にと順につかまって、彼は縁側へ歩み出た。夕子も彼の後ろへ立っていった。  縁側にはガラス戸が閉まり、カーテンが下っていたが、洗い晒《ざら》して縮んだようなカーテンの隙間《すきま》から、中庭が覗かれた。教主の居室にされていた離れは、ほとんど植込みに遮《さえぎ》られている。その東隣には、青瓦と白壁の拝殿が建ち、シンボルマークを照らす光が庭先にもふり注いでいる。拝殿が手前へ突き出た位置にあるため、またその向うにある客殿は、死角になって見えなかった。 「白い衣をまとわれた教主さまの影が、あそこの暗がりから現われて、拝殿の中へお入りになった。と思うと、あの屋根から白い煙がたちのぼり、天へ向かって真直《まつす》ぐに昇っていったのじゃ。ああ、勿体《もつたい》ない……かみなずみ……かみなずみ」  老人は両手をこすり合わせて、そちらを拝んだ。彼が、教主の影が現われたといって指さしたのは、離れの前の植込みのあたりだった。 「その影が拝殿の中へ入った時、拝殿の扉は開いていたのですか」 「いいや、拝殿の前で影が消えて、すーっと中へ吸いこまれたのじゃ」 「教主さまが白衣を着ていたことまで、ここから見えたのですか」 「真っ白い影じゃった。白衣をまとっておられたにちがいない。教祖さまがお隠れになった時にも、白衣のお姿で、大本部の神殿から昇天なさったのですからな。ああ、かみなずみ」    10  柏木美輪の後援会事務所は、港区|虎《とら》ノ門《もん》五丁目の、目立たないビルの二階にあった。  十月十五日月曜日夜九時、臼井警部が若手刑事を一人連れて、その事務所を訪れた。柏木美輪は土曜の夕方から箕面の宏神会大本部へ出掛け、日曜の午後に帰京するということで、ようやくその時刻にアポイントメントが取れた。  臼井たちが着いたのと入れちがいに、来客のグループが辞去して、そのあとの事務所内は秘書と二、三人の事務員が残っている程度だった。  女子事務員が、いちばん奥の議員の部屋まで二人を通した。 「遅くまでご苦労さまでございます。さあ、どうぞ」  と、美輪は声だけ愛想よく、二人をソファへ請じたが、抑えきれない苛立《いらだ》ちが表情をこわばらせている。臼井は強引に申し入れて、押しかけてきた恰好《かつこう》である。 「さっそくですが、天沼光教氏から再三事情をお聴きした結果、当初の供述にかなり誤りのあったことがわかってきましてね。光教さんはあの晩、柏木先生のお部屋をお訪ねしたものの、酔いと疲れのせいでまもなく眠ってしまった。それは十一時半から十二時の間くらいだったといわれているんですよ」 「それはまた、ほんとにお疲れになってるんでしょうね。そこまで思いちがいをなさるなんて」  美輪は眉《まゆ》をひそめ、心配そうに首を傾《かし》げた。 「いよいよ三代目教主を継がれることになり、ストレスが多くて大変なんでしょうけど。——ともあれ、事件当夜のことは、私たちの最初の話にまちがいありません。光教さんにせよ、前の晩のことをお忘れになるはずはないんですから」 「いや、それがですね、あの朝は起き掛けに事件を知らされた上、内部の者の仕業《しわざ》だなどといわれたショックですっかり動転し、つい柏木先生の話につられてしまった。しかし、落着いて思い返してみれば、今申しあげた通りだといわれるのです。——まあ、いずれにせよ、お二人の供述がくいちがってくると、どちらにも百パーセントの信頼はおけなくなるわけなんですが……」  美輪はムッとして何かいいかけたが、臼井がかぶせて続けた。 「それともう一つ、犯人は相当な返り血を浴びていたと推測され、一方、屋敷内には血痕《けつこん》の付着した衣類などまったく発見されなかったため、犯人内部説は一時後退していたんですが……」 「ええ」 「ところが、ここに来て新たな見方が出てきたんですよ」 「……」 「明鏡殿の西南の隅にある家に、巽という老人が住んでいますね。その人が、十月八日の深夜、ちょうど事件発生の直後|頃《ごろ》、教主のいた離れから真白な影が走り出て、拝殿に吸いこまれるのを見たと証言したのです。あるいは、その影は客殿に吸いこまれたのかもしれないんですが、あいにく老人の寝室からは拝殿までしか視界に入らなかったようでね」  終りのことばの意味を探るように、美輪は少しの間臼井を観察していたが、やがて軽く笑い流す口調でいった。 「そんな、廃人同然の呆《ぼ》け老人のいうことなど、警察がまともに取りあげるんですか」 �老人福祉�とはほど遠い響きがあった。 「もちろん、巽さんの証言を、鵜呑《うの》みにするわけではありません。非現実的な部分も多々ありますしね。しかし、それが思わぬ示唆《しさ》となって、新しい着眼を触発してくれたんですよ」 「……」 「もし、犯人が全裸で犯行に及び、返り血が乾くのを待って、そのまま自室まで逃げ帰ったと想像してみれば、遠くから見た老人の目には、犯人の姿が真白な影に映ったかもしれませんね」  一呼吸遅れ、かすかに喘《あえ》ぐ声で、美輪がいい返した。 「犯人は、白い服を着てたかもしれないじゃないの」 「そういう考え方もできます。しかし、当夜明鏡殿へ来た大賀八千代さんは、黒い服を着てたようですし、柏木先生の持ち物にも、白っぽい服は一枚も見当りませんでした。どうやら犯人は全裸であった可能性のほうが強いようだ。そこでわれわれは、万が一の可能性を考慮して、当夜先生が滞在しておられた客殿の寝室のバスルームを調べてみたんですよ」 「……」 「よもやと思ったんですがね、ルミノール反応の結果はプラスでした。檜《ひのき》の浴槽《よくそう》から、明確な血液反応が認められたのです。当然先生は、ご自分の身体《からだ》といっしょに、バスタブもていねいに洗い流されたはずだと思うんですが、いったん木のくぼみなどに染《し》みこんだ血は、ルミノール反応の検査をすれば確実に——」 「そんなはずないわよ!」  突然美輪がヒステリックに叫んだ時、ドアが開いて、霞夕子が小柄《こがら》な姿を現わした。女子事務員が困惑げに何かいっていたが、夕子は気にもとめない顔でドアを閉めた。 「ちょっと思い出したことがあって、もう一度明鏡殿まで行って来たんですよ。それから家へ帰るつもりで、たまたまここの前を通りかかったもんですから」  夕子は誰《だれ》にともなく断り、臼井の後ろの隅《すみ》にあった椅子《いす》に腰をおろした。  柏木美輪は夕子を刺すように一瞥《いちべつ》し、すぐまた臼井へ向き直った。 「そんなはずがないといわれますと?」  臼井が機先を制した。 「いえ、血液反応なんて、そんなことは信じられないけど……」  美輪は必死で立ち直った。 「第一それが認められたとしても、私とは何の関係もありません。私よりあとで泊った人が付けたものか……」 「事件以後、あの部屋は使われていないのです」 「だったら、私以前のお客でしょう。木に染みこんだ血痕がそんなに長保《ながも》ちするというんなら……」 「先生はあの晩、十二時すぎに教主の寝室から逃げ帰り、素肌《すはだ》に付いた返り血を風呂《ふろ》の中で洗い落としたんじゃありませんか。バスタブも入念に洗っておいたので、血痕が残るはずはないと、そうおっしゃりたいんじゃないですか」  臼井が語気鋭く詰め寄ったが、美輪はそれに劣らぬ凜《りん》とした声ではね返した。 「失礼な! いいかげんになさい。私はあの晩ずっと部屋にいて、光教さんと午前二時すぎまで教団運営の諸問題を討論していたのです。あの人が眠ってから、二時半頃入浴して寝《やす》んだのです」  そこでいったんことばを切ると、美輪はことさら豊かな胸を張り、精いっぱいのポーズで臼井たちを睥睨《へいげい》した。 「あなた方、ご存じかどうか、私は法務大臣とおんなじ派閥ですの。何の証拠もなく、あんまり無礼な暴言を吐くと、ただではすませませんわよ!」  いっとき沈黙が落ちた時、夕子の穏やかな声がそれを破った。 「先生はあの晩、光教さんとごいっしょに、お酒を飲まれてたんじゃありませんか。飲んですぐお風呂へ入るのは、あんまり身体によくないと聞いてますけど」 「いいえ、酔ってたのは光教さんだけです」  即座に切り返すテンポは、夕子と対照的だった。 「第一、ふつうの人とちがって、私たちはそんな呑気《のんき》なことをいってられないんです。連日連夜、責任重大なハードスケジュールをこなしているんだから、私などはいつも熱めのお湯にゆっくりつかり、その日の疲れをすっかり発散させてから寝むように心がけておりますの」 「では、あの晩も?」 「ええ、そうでしたわ」 「あらぁ、それは不思議なことを伺いますわ」  夕子の声がいちだんとゆるりとした、一種独特の雰囲気《ふんいき》を帯びた。 「だって、あの晩尾形さんは、母屋《おもや》の裏にあるボイラー室のスイッチを、十二時半に切ったということでしたわ。ふだんはもっと早いけれど、あの日は教主や柏木先生が滞在していらしたので、その頃までつけておいたそうです」 「……」 「十月に入って、夜分はだいぶん冷え込んでますのでねぇ。こんな季節で、ボイラーを止めたあと、どのくらいの時間熱いお湯が出るものかと思って、さっきはその点を尾形さんにお尋ねしにいったんですよ。それは給湯タンクの大きさにもよるそうですけど、あそこではせいぜい十分間くらいしか保たないんですって。いずれにせよ、ボイラーを止めて二時間もたってから、客殿のバスルームで熱いお湯が出るなんてことは、絶対にありえないというお答えでしたわ」  ほとんど呆然《ぼうぜん》として、身動《みじろ》ぎも忘れているタレント議員に向かって、夕子は親しみのあるお多福顔をほころばせた。 「明敏な柏木先生にしては、今度はちょっと誤算が多すぎたようですねぇ」 「光教が供述を翻《ひるがえ》したり、ルミノール反応の問題にしてもそうだ。教主との不和を周囲に知られぬうちにと、凶行を急いだんだろう」  臼井が止《とど》めを刺した。夕子の眼差《まなざし》は、それでとりわけ冷やかになるというのでもなく、どこか相手の気持をくつろがせるような口調も変らなかった。 「やっぱり物事は周到な用意をしてかからないと……何事につけ、よくよく備えたつもりでも、めったに計算通りには運ばないんですから。きっと選挙もおんなじかもしれませんけど」 この作品は昭和六十年四月新潮社より刊行され、昭和六十三年一月新潮文庫版が刊行された。